1/9(日)防府の礼拝堂です。説教壇下には水仙の花。良く香りました。1/9(日)こちらは徳山の礼拝堂です。
礼拝堂が温かいのでしょうか。ポインセチアが頑張っています。寒さに弱い植物…。
1/8(土)こちらは柳井の礼拝堂。冬晴れの良い日でした。
山口県では、「まん延防止等重点措置」が、県東部の市町に1/31まで出されています。
週報などで家庭礼拝をご希望の方は、ご連絡を頂ければ発送いたします。
今週の予定は以下の通りです。
今週、来週のおおまかな予定は以下の通りです。
1/12 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
1/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/19 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
1/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカによる福音書3:15~17 (新106)
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
■ ルカによる福音書3: 21~22 (新106)
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
■ 説教 「求めるものは安らぎ」
年末の「防府マラソン」では、「伴走者」の働きを見ました。正月にもマラソン競技が行われました。走者たちは、競技では「終わりあるマラソン」を走ります。しかし彼らの日々の一つは「終わりなき練習」です。この関係性は私たちの中にも適用できます。例えば終わりある「作業/課題」と、終わりなき「仕事/学業」。信仰的にも、古人を悩ませたことがありました。洗礼者ヨハネが語り、後年パウロやルターが大いに悩む「神の前での善行」でした。
聖書日課は、21-22節の「主の洗礼」に先立ち、15-17節が「ヨハネによる主の紹介」となります。この配置の意図は、主の自己理解と、ヨハネの語る主の姿の違いを際立たせることでしょう。ヨハネは「徴税人、兵士、宗教者」に、生き方の転換を語り、自身も「名家からの離脱」を行いました。ヨハネによれば主は「有益と無益を分け、良いものは用い、無益は…(17)」でした。しかし、神は主の洗礼の際に、厳しさとはほど遠い情景を示すのです。
そもそも主が洗礼を受けられたのは、「罪びとと同一線上に立つ」ことの現れでした。洗礼者ヨハネのように、神の言葉を預かる「預言者」としての強権を、主は示されません。その際「聖霊が鳩」のように下ると福音書は記載しています。なぜ「鳩」なのか。鳩は旧約では「神と人との和解の動物」の一種類です。また旧約のノアに、安心できる土地の存在を知らせた生物です。「主は、罪びとを神さまとの関りで執り成し、安心を供する」お方です。
21節「天が開ける」から、主の登場以前は曇天であったことが想像できます。その曇天を分けるようにして、陽光が主の周囲を照らしたのです。主を覆った「神の声」は、旧約イザヤ書 (p1128)を下敷きにしています。「傷ついた葦、暗くなる燈心(42:1)」が、人間に例えられています。日々の生活の中で、傷つき、活力を無くす私たちのことでしょう。終わりなき日々の、月々のマラソンを行くような私たちの、「伴走者」が主であることを覚えたい。