久しぶりの投稿となりました。
母の葬儀、あわただしさのためのことです。
また来週から、適度な更新を心がけます。
4/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
4/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
4/8 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝
4/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
4/16 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝
4/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
4/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
説教の要旨は以下の通りです。
■ マルコ16: 1~ 8 (新97)
■ 説教 「朝の光を背に受けて」
「誰にも何も、言わなかった。恐ろしかった(16)」と福音書は結びます。しかしこれは、女性たちの「昔の姿」を、福音書記者マルコが聞き、記したものです。「復活」とは、主によって予告されていました。しかし、女性たちが見た「リアル:現実」は、主の「予告」のお言葉を払しょくさせるものでした。「墓参り」に来た女性たちの心にあったものは何でしょう。
「なぜ」でした。主イエスが「なぜ」裁かれるのか、嫌疑は何か。なぜバラバとイエスが交換されたか、見世物か。なぜ侮辱され、なぜ木に架けられ(申21)、即日の執行なのか。答えの出ない問いの中、処刑を見たのです。そしてせめて主のお体を保つため「油と香料(1)」を求めます。供物から考えれば、主の復活は全くもって信じられていませんでした。
「現実の前に言葉を無くす」状況の女性たちは、驚きの光景を見ます。墓の封印はなく、主のお体もありません。若者が「復活を弟子たちとペトロ」に告げよと言います。「ペトロ」が触れられているのは、「赦されないものはない」ということの現れです。しかし女性たちは「黙し」ました。それは、「かつて」のことでした。復活の伝承は「今この時」に至ります。
明確な記載はありませんが、女性たちは復活の主に出会い、力づけられ、それを「誰かに(16)」伝えたのです。マルコ福音書は主を「神の子(1:1、15:39)とします。神の第一の働きとは「存在の肯定(善しとした)」です。現実に打たれ、み言葉を忘れ、逃げ去るものを主は肯定し、使命を託すのです。その主が伝えられ、この日の朝、告げられたのです。