12/1 防府礼拝後に点灯させた徳山のイルミネーションです。
12/6 教会入口のスロープがかなりうるさいことになっていました。
見かねた関係者の方が、木のスロープを作って下さいました。
12/7 柳井教会のクリスマスツリーです。
礼拝出席者によってきれいに装われました。
12/8 そして今日の徳山教会。
イスがなかなか素晴らしいことになっています。なぜでしょうか。
今週、来週の予定は下記の通りです。
12/11 水曜日 19時 六日市礼拝
12/13 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山
12/14 土曜日 15時 柳井C礼拝
12/15 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
12/18 水曜日 19時 六日市C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書 3章1-12節】
「道」とは、「人生の歩み」の表現の一つです。挫折も徒労も失敗もあるのです。その中で生きて行くための支えを、聖書は洗礼者ヨハネの生き方を通して語り掛けます。「主の道を整えよ」とは、元来は旧約の預言者イザヤが告げた言葉です。「主が来られる」そのために、「自分自身の生の道を整えよ。」となります。ヨハネが属していたユダヤ教集団の言を取れば「神の前の清貧」を追求するという勧めです。遠い出来事と思えます。
若き日の洗礼者ヨハネは、何不自由ない生活を送っていました。「祭司家」の生まれだからです。日々の糧も将来も補償されていました。その彼が一転、全てを捨て荒野の修道僧となるのです。ヨハネを駆り立てた動機は不明ですが、1 何不自由ない生き方には多くの人々の呻きがあることに気付く。2 同僚たちの安穏とした生き方に疑問を持つ。そのような思いでヨハネは荒野に向かったのでしょう。真直ぐな人だったのです。
金銭的にも制度的にも、罪の赦しとしてのヨハネの洗礼は画期的でした。煩雑な儀式と金銭を要する「赦し」の儀式でなく、単純素朴な式。更に、神に近づく信仰でなく神が近付く信仰。前者がユダヤ教の立ち位置であり、後者がヨハネの立ち位置でした。それと分かる特徴的な身なりをしたファリサイ派に、ヨハネは激しい怒りの言葉を向けます。宗教の名のもとに安逸をむさぼる彼らに憤っていた、そして在りし日の自分をそこに見出して、更に怒りが増したのでしょう。怒ったままでヨハネは、厳しい主の姿を語ります。
ヨハネが語る通りの主が来られるとするならば、私たちの立つ瀬はないでしょう。しかし来週の聖書とも重なりますが、主は(私たちにとっても当時の人々にとっても)良い意味でヨハネの期待を裏切ったのです。挫折、徒労、失敗のない人生はない。「清貧」を求める余裕なく、深い落ち込みに生きる、生きざるを得ない人々と主が共に居られる。アドベント(待降節)第2主日とは、その生き方をなさる主が来られることを覚える時です。