8/26(火)徳山礼拝所の朝です。
教会の公式ブログという観点から見ればまったく関係ありませんが、
昨日、徳山の「TOSO 永源山プール」公園プール|周南市のTOSOH PARK 永源山
午後の時間、漬かってきました。影響は昨日から、てきめんな日焼けとして表れています。
会員が入院していますので、祈りをささげました。
久しぶりに10名突破。子どもも入れると14名でした。
子どもの声は、力をいただけます。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
8/24(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第11主日 説教
ルカ福音書13章10節-17節 「見て見ぬふりを越えて」
水原一郎
① 本日、私たちに与えられた御言葉は、ルカ福音書13章10節から17節です。会堂で教えておられた主イエスの前に、「ひとりの女」が登場します。彼女は、十八年ものあいだ、腰が曲がったまま、まっすぐに立つことができませんでした。主イエスは、この女性を見て、声をかけ、手を置かれました。その瞬間、彼女は癒され、立ち上がり、神を賛美したと記されています。その姿はまるで、長く暗いトンネルを抜けた人のようです。神を仰ぎ見て賛美すること、それは彼女が十八年間、できなかったことでした。
② 彼女は、この町の、会堂の、見知った顔であったはずです。にもかかわらず、会堂長をはじめ、人々の心には、彼女の存在は「いてもいなくても同じ」だったのかもしれません。まず一八年間、彼女は会堂の礼拝に集い続けました。けれど、少なくとも会堂長はこの女性に思いを向けません。またこの女性も、自身の心にあるものを会堂長に言えるような、そういう雰囲気でもありません。現代の私たちにも覚えがあることではないでしょうか。日々すれ違う、苦しみを抱えた人の存在。見えているはずなのに、見ていない。聞こえているはずなのに、聞こうとしない。そうして、見過ごされてきた痛み、声なき声。主イエスは、まさにそこへと、まなざしを向けられたのです。
③ けれども、癒しの様子と結果を見た会堂長は憤ります。「今日は安息日だ。癒しは他の日にしてほしい」と言います。これは、主イエスにではなく、群衆に向けて語られた言葉でした。言い換えれば、自分の立場を守るための、注意喚起のふりをした非難です。おそらく彼は、十八年のあいだ、この女性と顔を合わせてきたでしょう。けれども、その痛みに目を留めたことは、一度もなかったのではないか。安息日の「正しさ」を守るあまり、人ひとりの「痛み」が後回しにされていったのです。
④ それに対して、主イエスは語ります。「誰でも安息日にも牛やろばに水を飲ませるではないか。まして、この女を、十八年もの間サタンに縛られていたこのアブラハムの娘を、解いてやってはいけないのか」。ここに、主のまなざしの核心があります。律法の正しさ、つまり自分の論理を振りかざすより先にすることがある。まず目をとめよ、まず声をかけよ、まず手を差し伸べよ――主はそのように言われるのです。
⑤ 皆さん、十八年間、腰が曲がったままのこの女性の姿は、私たち自身ではないでしょうか。あるいは、私たちの隣人の姿ではないでしょうか。社会の中で、家庭の中で、教会の中で、痛みを抱えながら、声を上げられずにいる人。「見てほしい」「気づいてほしい」と願いながら、黙って下を向いている人。そういう方々が、私たちのすぐそばに、生きておられるのではないでしょうか。
⑥ 主イエスのまなざしは、今もそのような人々に注がれています。「そのままでいい」と通りすぎるのではなく、「その人の痛み」を見つけ出し、「今、ここで癒す」ために、主は立ち止まってくださるのです。そして、同じように私たちにも呼びかけられます。――見て見ぬふりをやめなさい。――ともに見る者として、ともに歩む者として生きなさい。この一週間、私たちは誰とすれ違うでしょうか。誰の痛みに目を留めるでしょうか。主のまなざしに導かれて、私たちもまた、誰かの「十八年」に寄り添う者として、遣わされてまいりましょう。