2025年8月27日水曜日

8/20.23.24 六日市のコスモス、柳井、徳山と防府

 

 8/26(火)徳山礼拝所の朝です。

 教会の公式ブログという観点から見ればまったく関係ありませんが、

 昨日、徳山の「TOSO 永源山プール」公園プール|周南市のTOSOH PARK 永源山 

 午後の時間、漬かってきました。影響は昨日から、てきめんな日焼けとして表れています。

 8/24(日)防府礼拝所の様子でした。

 会員が入院していますので、祈りをささげました。

 8/23(土)柳井礼拝所の聖壇です。

 久しぶりに10名突破。子どもも入れると14名でした。

 子どもの声は、力をいただけます。

8/20(水)六日市礼拝所の礼拝後。左側の「わさわさ」が、一カ月後にはどうなっているでしょうか。たのしみです。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/24(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第11主日 説教 

ルカ福音書1310-17節 「見て見ぬふりを越えて」

水原一郎

 本日、私たちに与えられた御言葉は、ルカ福音書1310節から17節です。会堂で教えておられた主イエスの前に、「ひとりの女」が登場します。彼女は、十八年ものあいだ、腰が曲がったまま、まっすぐに立つことができませんでした。主イエスは、この女性を見て、声をかけ、手を置かれました。その瞬間、彼女は癒され、立ち上がり、神を賛美したと記されています。その姿はまるで、長く暗いトンネルを抜けた人のようです。神を仰ぎ見て賛美すること、それは彼女が十八年間、できなかったことでした。

 

② 彼女は、この町の、会堂の、見知った顔であったはずです。にもかかわらず、会堂長をはじめ、人々の心には、彼女の存在は「いてもいなくても同じ」だったのかもしれません。まず一八年間、彼女は会堂の礼拝に集い続けました。けれど、少なくとも会堂長はこの女性に思いを向けません。またこの女性も、自身の心にあるものを会堂長に言えるような、そういう雰囲気でもありません。現代の私たちにも覚えがあることではないでしょうか。日々すれ違う、苦しみを抱えた人の存在。見えているはずなのに、見ていない。聞こえているはずなのに、聞こうとしない。そうして、見過ごされてきた痛み、声なき声。主イエスは、まさにそこへと、まなざしを向けられたのです。

 

③ けれども、癒しの様子と結果を見た会堂長は憤ります。「今日は安息日だ。癒しは他の日にしてほしい」と言います。これは、主イエスにではなく、群衆に向けて語られた言葉でした。言い換えれば、自分の立場を守るための、注意喚起のふりをした非難です。おそらく彼は、十八年のあいだ、この女性と顔を合わせてきたでしょう。けれども、その痛みに目を留めたことは、一度もなかったのではないか。安息日の「正しさ」を守るあまり、人ひとりの「痛み」が後回しにされていったのです。

 

④ それに対して、主イエスは語ります。「誰でも安息日にも牛やろばに水を飲ませるではないか。まして、この女を、十八年もの間サタンに縛られていたこのアブラハムの娘を、解いてやってはいけないのか」。ここに、主のまなざしの核心があります。律法の正しさ、つまり自分の論理を振りかざすより先にすることがある。まず目をとめよ、まず声をかけよ、まず手を差し伸べよ――主はそのように言われるのです。

 

⑤ 皆さん、十八年間、腰が曲がったままのこの女性の姿は、私たち自身ではないでしょうか。あるいは、私たちの隣人の姿ではないでしょうか。社会の中で、家庭の中で、教会の中で、痛みを抱えながら、声を上げられずにいる人。「見てほしい」「気づいてほしい」と願いながら、黙って下を向いている人。そういう方々が、私たちのすぐそばに、生きておられるのではないでしょうか。

 

⑥ 主イエスのまなざしは、今もそのような人々に注がれています。「そのままでいい」と通りすぎるのではなく、「その人の痛み」を見つけ出し、「今、ここで癒す」ために、主は立ち止まってくださるのです。そして、同じように私たちにも呼びかけられます。――見て見ぬふりをやめなさい。――ともに見る者として、ともに歩む者として生きなさい。この一週間、私たちは誰とすれ違うでしょうか。誰の痛みに目を留めるでしょうか。主のまなざしに導かれて、私たちもまた、誰かの「十八年」に寄り添う者として、遣わされてまいりましょう。



2025年8月19日火曜日

8/16.17 柳井、徳山のアサガオ

 

8/19(火)徳山の朝、咲いたアサガオ。

今朝は曇り空。

8/16(土)柳井チャペル。こちらも曇り空。

晴れれば尋常ではない暑さ。曇りでも、こもる湿気。降れば降ったで異常な降り方。

けれどこれも、自然のいとなみの出来事なのでしょう。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨節第10主日 説教 

ルカ福音書1249-56節 「理不尽のただ中におられる主」

水原一郎

    「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」。もし今、あなたの耳にこの言葉だけが届いたとしたら、どんな思いがよぎるでしょうか。どうして救い主が、争いや分裂のことを、自分の使命だと語られるのでしょうか。本日は、ルカ福音書124953節から、その主の真意に耳を傾けたいと思います。

 

    今日の聖書で、主は全てをご自身に関わることとされます。「私が来たのは、地上に火を投ずるため(49節)」、「私が来たのは、分裂をもたらすため(51節)」そして「家族の分裂(52-53節)」が語られます。これらを主は、ご自身から発するものとします。ただこれらは、主以前も主以降も、人と人とが集う社会の中では、繰り返し起きたことであり、今もこれからも起きうることです。問題は、このような普遍的なことを、なぜ主はご自身のこととして引き受けたのか、です。

 

    聖書でも、最初の「創世記」には「人類最初の兄弟げんか」であるカインとアベルの姿が書かれています。二人という状況でも、争いは起きてしまうのです。また最後の「ヨハネの黙示録」では、国家からの迫害を受けたキリスト者の現状と希望を記したものと言われます。国家の都合により、人々の信仰や自由な生活が妨げられることは、起こり得ることなのです。

 

    起きてくる「分裂、分断」を受け止める側、当事者の立場で見ると、これほど理不尽なことはないでしょう。アベルは、懸命に働いて捧げただけのです。しかしねたみで殺されるのです。黙示録のキリスト者は、信仰を人生の支えとしていたのです。しかしキリスト教を捨てることを求められるのです。キリスト者であろうとなかろうと、「理不尽」は私たちの日常のすぐ傍にあるのです。そのことをご存じの主は、なぜ「分裂や分断」をご自分に由来することとして語られるのでしょうか。

 

    それは「理不尽の声を、問われるため」と見ます。「神よ、主よ、なぜですか?」という、あらゆる災難、苦難に直面する時に人が発する悲嘆の声を、受け止めるためです。災難、苦難において、主の時代の宗教者はいわゆる「因果応報」を説きました。そこには、起きてくる、巻き込まれる理不尽を、当人に負わせるだけです。その人々への心までは顧みられません。今主イエスは、あえてその厳しい中に踏み込みます。「なぜですか、どうしてですか」という、答えの出ない問いにさまよう人々の心に飛び込まれます。その渦中の私たちに、ご自身を共に居らせるのです。

 

    皆さんがこれまでの歩みのなかで「理不尽」だと思われたことは何でしょうか。それは、私たちのすぐそばにあります。避けようと思っても避けきれず、ときに私たちを打ちのめします。しかし主イエスは、その理不尽を私たちと共に引き受け、「なぜですか」という問いのただ中に立ってくださいます。実際、この直ぐ後で主は「究極の理不尽」である災害や事故、死ということに向き合います。だからこそ、私たちはその問いを抱えたままでも、主のもとに行くことができます。たとえ答えが見えなくても、主は共におられ、支え続けてくださる方だからです。この一週間、どんな問いや重荷を抱えるときも、理不尽を担う主と共に歩んでまいりましょう。


2025年8月13日水曜日

8/9.10 柳井、防府、徳山

 

 8/10(日) たどり着くのが困難なほど、山口県では豪雨となっていました。

 防府の礼拝は、短い形で守り皆さまの帰宅を見送りました。


 8/5(火)召天された教会員を覚え、毎年ご友人の方がお花をくださいます。

 8/10(日)徳山の教会員が召天をし、ご葬儀が8/11.12と行われました。

 ご家族に天来の慰めを覚え、祈ります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

8/13 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/21 木曜日 牧師 広島出張

8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/10(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第9主日 説教 

ルカ福音書12章32節-34節 「小さな群れに寄り添う神」

水原一郎

 本日はルカ福音書123234節の御言葉から、「恐れの中で生きる私たちに寄り添う神の養い」についてご一緒に味わってまいりましょう。冒頭の「小さな群れよ、恐れるな」という言葉――皆さんはどう聞かれるでしょうか。正直に言えば、恐れることはたくさんあります。健康のこと、家族のこと、将来の生活、経済的な備え、人間関係の行き詰まり。弟子たちもまた、不安のただ中にいました。


 今日の言葉の前には「財産の相続」に関するやりとりがあります(12:1315)。ある人が主イエスに「兄弟に、遺産を分けるよう言ってください」と訴えます。申命記の律法では権利は守られていましたが、この人は「少しでも多く欲しい」と思ったのでしょう。しかし主イエスは介入せず、「あらゆる貪欲に気をつけなさい」と警告されました。そして「富を積んでも命の長さは変わらない」というたとえを語られ、「野の花」「空の鳥」のように、神の養いを信じて生きる道を示されます。ここには、「得ることに執着する生き方」から、「神の備えに喜ぶ生き方」への招きがあります。


 「神さまの備え」とはどういうことでしょうか。32節で主イエスはこう宣言されます。「あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる」。二つのことが、言えます。一つ目、ここで使われている「喜んで(ギリシャ語 eudokeō)」は、「心から望み、進んでそうする」という意味です。神はいやいや与えるのではなく、喜びをもって、積極的にあなたに備えてくださるこれが一つ目です。二つ目。神の国とは単に死後の天国のことではありません。神の支配と導きが、いまこの地上であなたの歩みに及んでいる状態です。つまり「あなたに必要なものを、神は喜びをもって、今から与えられる」という約束です。


  3334節では「持ち物を売り、施し、天に富を積め」と命じられます。弟子たちはきっと思ったでしょう――「全てを捨ててきたのに」「そんなに簡単に手放せるだろうか」。また「このような無一物の教えが受け入れられるだろうか」と。しかし主イエスは、ここでは「関わり」を言われます。「神が備えてくださるから」何もしなくていい、ということではありません。むしろ、自分の持ち物を他者に捧げ、他者の賜物を頂くという関わりです。「売り」「施す」という言葉から、金銭や物質に限定されがちですが、主イエスは「人と人との深い関わり」を語るものなのです。


 新しい職場、初めての学校、慣れない場所、病院や施設私たちは知らない場所に行くとき、不安を覚えます。しかし、そこに自分を心から歓迎してくれる人がいると分かれば、安心できます。私たちの人生のこれからの道も同じです。先が見えないとき、不安はつきものです。けれども、その先で待っているのは、あなたを歓迎し、喜びをもって必要を備える神です。


⑥ 「宝を天に積む生き方」というものは、どのようなものでしょうか? 私たちの日々は、「何が人に喜ばれるか」を中心に置いたものと言えます。「何が神に喜ばれるか」を加えることは出来るでしょうか? 頂いているものを、神さまにお返しをする生を覚えたいと思います。