8/19(火)徳山の朝、咲いたアサガオ。
今朝は曇り空。
晴れれば尋常ではない暑さ。曇りでも、こもる湿気。降れば降ったで異常な降り方。
けれどこれも、自然のいとなみの出来事なのでしょう。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
8/20 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
8/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
8/27 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
8/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
8/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
8/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨節第10主日 説教
ルカ福音書12章49節-56節 「理不尽のただ中におられる主」
水原一郎
①
「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」。もし今、あなたの耳にこの言葉だけが届いたとしたら、どんな思いがよぎるでしょうか。どうして救い主が、争いや分裂のことを、自分の使命だと語られるのでしょうか。本日は、ルカ福音書12章49〜53節から、その主の真意に耳を傾けたいと思います。
②
今日の聖書で、主は全てをご自身に関わることとされます。「私が来たのは、地上に火を投ずるため(49節)」、「私が来たのは、分裂をもたらすため(51節)」そして「家族の分裂(52-53節)」が語られます。これらを主は、ご自身から発するものとします。ただこれらは、主以前も主以降も、人と人とが集う社会の中では、繰り返し起きたことであり、今もこれからも起きうることです。問題は、このような普遍的なことを、なぜ主はご自身のこととして引き受けたのか、です。
③
聖書でも、最初の「創世記」には「人類最初の兄弟げんか」であるカインとアベルの姿が書かれています。二人という状況でも、争いは起きてしまうのです。また最後の「ヨハネの黙示録」では、国家からの迫害を受けたキリスト者の現状と希望を記したものと言われます。国家の都合により、人々の信仰や自由な生活が妨げられることは、起こり得ることなのです。
④
起きてくる「分裂、分断」を受け止める側、当事者の立場で見ると、これほど理不尽なことはないでしょう。アベルは、懸命に働いて捧げただけのです。しかしねたみで殺されるのです。黙示録のキリスト者は、信仰を人生の支えとしていたのです。しかしキリスト教を捨てることを求められるのです。キリスト者であろうとなかろうと、「理不尽」は私たちの日常のすぐ傍にあるのです。そのことをご存じの主は、なぜ「分裂や分断」をご自分に由来することとして語られるのでしょうか。
⑤
それは「理不尽の声を、問われるため」と見ます。「神よ、主よ、なぜですか?」という、あらゆる災難、苦難に直面する時に人が発する悲嘆の声を、受け止めるためです。災難、苦難において、主の時代の宗教者はいわゆる「因果応報」を説きました。そこには、起きてくる、巻き込まれる理不尽を、当人に負わせるだけです。その人々への心までは顧みられません。今主イエスは、あえてその厳しい中に踏み込みます。「なぜですか、どうしてですか」という、答えの出ない問いにさまよう人々の心に飛び込まれます。その渦中の私たちに、ご自身を共に居らせるのです。
⑥
皆さんがこれまでの歩みのなかで「理不尽」だと思われたことは何でしょうか。それは、私たちのすぐそばにあります。避けようと思っても避けきれず、ときに私たちを打ちのめします。しかし主イエスは、その理不尽を私たちと共に引き受け、「なぜですか」という問いのただ中に立ってくださいます。実際、この直ぐ後で主は「究極の理不尽」である災害や事故、死ということに向き合います。だからこそ、私たちはその問いを抱えたままでも、主のもとに行くことができます。たとえ答えが見えなくても、主は共におられ、支え続けてくださる方だからです。この一週間、どんな問いや重荷を抱えるときも、理不尽を担う主と共に歩んでまいりましょう。