10/13(月)防府駅に豪華列車「瑞風(みずかぜ)」が停車しました。
京都から山陽を経て下関に向かうルートとか。
一泊二日の行程を見て、その行程のゆったりさに ぜいたくを感じました。
おっと、料金も…。行程も料金も、今の段階では手が出ません。
残暑はまだまだ続きます。扇風機が離せません。
朝日が礼拝堂に入るこの瞬間が好きです。
10/13(月)の夜、栗ご飯にして頂きました。
オレンジ色は柿、その麓には秋桜、こちらでも、教会員から大ぶりの栗と
ミョウガを頂きました。誰がなんといっても秋、しかし残暑はいまだ続きます。
こちらの栗は、現在水漬け中。冷凍して鬼、渋を抜くのです。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
10/15 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。
10/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/22 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
10/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
10/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第18主日 説教
ルカ福音書17章11節-18節 「ありがとう、は花言葉」
水原一郎
① 本日の福音書では、主イエスが10人の「重い皮膚病」を患う人々に出会います。そのうちの1人、サマリア人が主のもとに「戻って来」て、神を賛美し、主イエスに感謝したことが語られています。この物語は、「感謝」に目が行きます。主イエスは「感謝」と共に、癒しの事柄を通した「神さまへの賛美」を大切なこととして見ています。
② 舞台は「サマリアとガリラヤの間」、宗教的にも民族的にも緊張する境界地域でした(17:11)。その道中、ある村に入られた主イエスに向かって、10人の重い皮膚病の人々が声を上げます。「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんで下さい」と(17:13)。レビ記13章46節によれば、こうした病を患った方は、「宿営の外」に隔離され、人との接触を断ち、しかも自ら「汚れている」と告げねばなりませんでした。彼らが「村の中」にいたというのは、そうした背景を考える時、不思議な表現です。ここが「境界地帯」つまりそれぞれの地域から離れている「隔離村」だったのでしょう。
③ 主は「行って、祭司に体を見せなさい」と命じられました(17:14)。これは、レビ記14章に定められた、癒し後の社会復帰の手続きです。主は、彼らの願い――癒されること、そして共同体に復帰すること――を知っておられました。彼らは主の言葉に従い、行動しました。そしてその途中で、癒しが起こったのです。彼らは皆、自分たちが癒されたことを知りました。そして「社会復帰」のため、故郷に帰るものもいたのです。
④ ところが、癒された10人のうち、1人だけは主のもとに戻りました。それも、ユダヤ人とは元来は関係を保とうとはしないサマリア人でした(17:16)。彼は大声で神を賛美します。そして主の足もとにひれ伏し感謝を捧げます。主はその姿をご覧になり、問いかけられます。「感謝」の言葉を受け止められたのは確かですが、主の注目は「この外国人の他に、神を賛美するために戻ったものはいないのか」(17:18)でした。
⑤ 主イエスは「感謝」に現れる「神さまと向き直る姿勢」を問われます。そもそも主は「祭司に体を見せなさい(17:14)」と、すぐに社会復帰の儀式の手順を始めることを促しました。10人がそれぞれの故郷に戻り、失われた日々を取り戻して欲しかったのです。もともと「感謝を受ける」また「感謝を伝える」ことは主の思いの外でした。戻らなかった9人は、故郷の村で儀式に預かります。儀式を通し、神さまに感謝はしたことでしょう。そこには、自分の生活を取り戻すという熱意があり、主イエスもまたそれを願っていたのです。「神さまの眼差しに包まれ、自由に生きる」のです。しかし戻った一人は、まず「神を賛美した」のです。「眼差しを注ぐ神さまに向き直る」のです。
⑥ 「困った時の神頼み」は、大事なことです。私たちは、神さまからの恵みを受けることは熱心です。恵みが足りないと感じるときは祈り、願い求めます。けれども、その恵みの背後におられるお方――主なる神ご自身に立ち返るということを、私たちは、事柄が過ぎた後には忘れてしまいます。「十中八九」忘れます。ちょうど今日の聖書のように。しかし今日、改めて「神さまに向き直って生きる」ことを覚えたいのです。
⑦ 今週、私たちが迎える日々にも、主は近づいてくださいます。その主の働きに気づき、恵みを受けたとき、「感謝」とともに神さまに立ち返る歩みをしたいのです。