11/11(火)徳山礼拝所の庭。
頂いた献花を植え替えました。
手前では、菊が開花を始めています。
聖霊降臨節の礼拝も、あと少し。
どちらかのご家庭が干している落花生。
礼拝後には引き上げられていました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
11/12 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
11/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/19 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
11/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
11/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/9(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第22主日 説教
ルカ福音書20章27節-40節 「笑顔で私たちを待つ方」
水原一郎
① 人生には避けがたい別れがあります。愛する人との死別、病や孤独、老い、失望――それらは誰もが通る道であり、避けることはできません。主イエスの時代も同じでした。当時のユダヤの死生観には「陰府」や「火」という、暗く厳しいイメージがありました。死はすべての終わりを意味する、かのように感じられていました。旧約聖書は、本来「神さまが、この地上を人々と共に生きる」ことを語る書です。荒野をさ迷った人々や、捕囚の民を支えたのは、神さまが「共にある」という約束でした。「死後の世界」への関心は薄かったと言えます。しかし主イエスは、格差や不安、争いが広がる社会の中で、人々に希望を語られました。それは、死を越えてもなお、神の記憶の中に生き、神に覚えられている命であり、絶え間ない慰めと光をもたらすのです。
② 本日の福音書には、主イエスとサドカイ派との問答が記されています。サドカイ派は復活を信じず、「死んだら終わり」と考える人々でした。彼らは裕福で権威ある立場にあり、主イエスに試すように問いかけます。「七人の兄弟が一人の女性と順に結婚したら、復活の時、彼女は誰の妻になるのか」。表面上は律法の問題に見えます。が、「復活を嘲る意図」これほど事態は複雑になるという揶揄の心があります。主イエスはこの挑発から逃げず、むしろ問いを発する者たちの心の奥にある「人々の苦しみや社会の不安に目を向けない態度」を見抜かれました。そして、力強く答えます。
③ 「復活の命」とは、この世の制度や形式の延長ではありません。結婚や血縁の枠を超え、神のいのちに生きること、それが復活です。「復活にあずかる者は、もはや死ぬことがなく、天使のようになる」と主は語られました。ここで言う「ふさわしい者」とは、努力や資格を積んだ人ではなく、神の憐れみに包まれた者を指します。神は命を終わらせたいとは望まれません。創造の業として与えられた命は、永遠に続くものです。地上で日々を必死に生きる人々も、神の手の中で天使のように自由で伸びやかな命に導かれる約束があります。この言葉は、聞く人の心に深い安心と希望を生みます。
④ 主イエスはそのことを示すため、サドカイ派が重んじる「出エジプト記」の中、3章を引用されます。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。これは「あった」ではなく、「である」。つまり彼らは今も神と共に生きているのです。肉体は滅びても、神との関係は絶えません。神は過去の人の神ではなく、今も生きておられ、私たち一人ひとりを生かしておられる方です。このことを心に刻むと、悲しみや孤独、喪失の現実も、新しい光の中で意味を持ち始めます。私たちもまた、避けがたい別れや喪失の中で生きています。愛する人を失った痛み、病の苦しみ、孤独の暗闇――そのとき「死んだら終わり」と思えば、人生は空しく、心は沈みます。しかし主イエスははっきりと告げられます。「神は、生きている者の神である。神にとって、すべての者が生きている」と。神の憐れみの中では、死は終わりではなく、新しい命の始まりなのです。
⑥ 私たちはすでに神のいのちの中で生かされています。過去も現在も未来も、神の御手の中にあります。愛する人々も、神のもとで生き続けています。私たちもその命の流れの中にあります。主イエスが語られた「生きている者の神」との出会いを胸に、希望をもって日々を歩みましょう。死を越えて続く神の命のうちで、今日も私たちは共に生かされているのです。神の慰めと力を信じ、日々の歩みを進めていきましょう。



