2026年2月10日火曜日

2/7柳井、2/8防府、2/8防府うっすらと積雪、2/8県境

2/7 柳井礼拝所の献花でした。
2/8 防府礼拝所。礼拝前にちらちらと雪が。
2/8 礼拝後。
2/8 防府礼拝所の庭。
2/8 こちらは、山口県と島根県の県境。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

2/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/8(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

 

顕現節第4主日 説教 

マタイ福音書513-16節 「見えなくとも、在る」

水原一郎

 主イエスは山の上で、弟子たちにこう語られました。「あなたがたは地の塩である」。この言葉は、良く耳にし、繰り返し聞いてきた馴染み深いものです。塩という言葉から、私たちは「世界を良くする調味料である」「社会に良い影響を与える存在である」という、存在への肯定として理解しがちです。決して間違いではありません。しかし、主イエスが語った「塩」は、私たちが思うより、はるかに重く、深い力を帯びた言葉です。


 旧約聖書において塩は、確かに味付け、腐敗を防ぐ調味料でした。それだけではありません。塩は、神さまと人との契約、約束が続くことを、人の側から覚え続けるしるしでもありました。レビ記には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」(213節)とあります。塩は、あるとよいものではなく、「必須」でした。捧げものに塩をかけ、捧げものの品質を保つことを通して、神さまへの思いも保たれることを誓うのです。その行為が、「主よ、私たちは約束、契約を守り続けます」という、決意の祈りだったのです。


 この背景を踏まえて「あなたがたは地の塩である」という主イエスの言葉を聞くと、その響きはまったく違ってきます。主イエスは、弟子たちを「世界を良くする人々」と励ましているだけではありません。神さまの契約を証しするしるしとして、しかもその約束は永遠に弱まることはないというのです。創世記には、ノアの洪水の後、神が虹を空にかけ、「私はもう世界を滅ぼさない」との誓いが記されています。虹は、世界が保たれているという神の約束のしるしでした。そして今、主イエスは弟子たちを、そのような「約束のしるし」として世に立てておられるのです。弟子たちは、この言葉を聞いて、胸の奥がざわついたことでしょう。自分たちが、虹と同じ役割を担うなど、思いもよらなかったからです。そのような器ではない、神の愛の約束は、すぐに弱まってしまうと。私たちも「地の塩」と呼ばれるのは、ごく一部の限られた人だけだと考えてしまいます。


  「塩気がなくなる」とは、何を意味するのでしょうか。それは、自分が「神の契約の証人として、この世界に置かれている」という事実を見失うことです。これはの問題ではなく、存在の問題です。神の名が語られなくても、神の約束が思い起こされなくても、日々が回ることに慣れてしまう。そのとき、私たちは確かに存在していても、契約を証しする「しるし」としては、機能しなくなってしまいます。主イエスは、その危うさを見据えておられます。塩であると宣言された者が、塩であることを忘れて生きるなら、その存在は、世界の中で見失われ、踏みつけられるものになり得る。その現実を、主ははっきりと語っておられるのです。それでも主イエスは、私たちを突き放しません。


 では、この言葉を私たちの歩みにどう結びつけたらよいのでしょうか。「地」と聞くと、私たちは広大な世界を思い浮かべてしまいます。しかし、主イエスが私たちを置いておられるのは、地球全体を変えるような場所ではありません。あなたが立っている場所、あなたの生活圏、あなたの周囲の世界です。家族の中で、職場で、教会で、友人の間で、あなたの存在そのものが、人の心を保ち、支え、励ましています。自分では気づかなくても、あなたの小さな言葉が、誰かの心を腐敗から守っていることがあります。 それでもなお、私たちは塩であることを忘れてしまいます。しかし、忘れる私たちよりも先に、主は忘れておられません。だからこそ、主イエスは今日もこの宣言を繰り返されます。「あなたがたは地の塩である」。見えなくとも、確かに、在るのです。