2026年4月7日火曜日

4/1六日市イースターエッグ、4/1病院の桜、4/4柳井、4/5防府、4/6笠戸の桜

 

4/4(日)防府礼拝所のイースター。

奥には、徳山礼拝所の方が新調してくださった牧師用アルバがあります。

4/3(土)柳井礼拝所のイースター。み言葉カード、イースタークッキー、エッグです。
4/1(水)会員をお見舞いした病院で撮った桜。
4/1(水)六日市礼拝所の方から頂いた、子ども用のイースターエッグ。

中は…。

4/6(月)笠戸島に行きました。桜は満開。貝殻拾いをしました。
その直前には全力で鬼ごっこ。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活祭 説教 

マタイ福音書281-10節 「道の途中で、おはよう」

水原一郎

① 主イエスの復活を祝うイースターの朝、私たちはマタイ福音書28章を読みます。しかし、この物語は、喜びに満ちた場面として始まってはいません。「安息日が終わって、…マグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓を見に行った(1節)」とあります。彼女たちは「復活を見に来た」のではありません。ただ、「墓を見に来た」のです。そこには、主イエスへの期待も、復活の確信も記されていません。ほかの福音書が語るような、主の体を整える香料さえ、マタイは記していません。主イエスを追憶をする気持ちはあっても、道具まで気が向かないのです。描かれているのは、「何もない」姿です。悲しみの中で、現実の前に立ち尽くしている、二人の姿をマタイ福音書は描きます。


② ここに、マタイ福音書の大切な視点があります。神さまの出来事は、人間の側の理解や期待を越えて起こされる、ということです。このことは、すでに十字架の場面で示されていました。主イエスを処刑する側にいた百人隊長は、主イエスを正しく評価する立場の人間ではありませんでした。信仰告白など、最初から予定されていない人物です。ところが、地震と十字架の出来事を目の当たりにしたとき、彼は思わずこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。これは、準備された告白ではありません。考え抜かれた言葉でもありません。思わず口をついて出た告白です。女性たちも、百人隊長も、共通しています。正しく理解し、期待していたわけではなかったのです。


③ それでも、神さまの出来事に遭遇したとき、言葉が生まれ、歩みが始まりました。墓の前で天使の言葉を聞いた女たちは、「恐れつつも、大いに喜んで」走り出します。恐れは消えず、気持ちも整理されません。揺れ動く心のまま、走り出したのです。すると、マタイはこう記します。「イエスが行く手に立っておられた」。主イエスは、墓の前で待っておられたのでも、信仰が整うのを待たれたのでもありません。女性たちが走り出したその途上で、待っておられたのです。主イエスの復活は、死がなお支配していると思われたこの世界において、神が新しいいのちを開始された出来事でした。


④ そのとき、主イエスが最初に語られた言葉は、荘厳な復活宣言ではありませんでした。「おはよう」。ギリシア語では「カイレーテ」。日常の挨拶の言葉です。「喜びなさい」や「嬉しいね」とも受け取れる、温度のある言葉です。主イエスは、その意味を説明されません。ただ、この言葉を語られます。それは、「出会えてうれしい」という、人と人との関係を回復する言葉です。死によって断たれた関係が、再び始まることを告げる言葉です。やがて弟子たちとの関係も回復していく、その確信を含んだ言葉です。


⑤ 私たちは、信じ切れないまま、礼拝に座っていることがあります。そして一週間を過ごします。それでも、主はその只中で、言葉をかけてくださいます。復活とは、私たちの信仰が完成した証ではありません。信じ切れないまま、「恐れつつ、走り続ける」一週間の現実の途上に、主イエスが立って下さっている出来事です。そしてそのとき、思わず口をついて出る言葉や、思いがけない出会いが、私たちの信仰を始めていくのです。主は今日も、またこの一週間の朝、私たちが朝起きる時に、私たちの人生の途上で、こう語りかけておられます。「おはよう」。私たちの中には「何もない」日々があったとしても、主イエスの声は届きます。私たちはそこから、新しい歩みを始めるものなのです。