2016年4月10日日曜日

4/10礼拝と献花

情熱的なバラの花が本日の献花でした。
贈ることも、贈られることももはやなくなりましたが、いいものですね。
一足早い聖霊降臨祭のようです。


本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
徳山では礼拝後、炊き込みご飯とわかめ味噌汁の愛さんを頂きました。
その後、来週のコンサートに備えた掃除をいたしました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたさまでもご自由にいらしていただけます。

 4/17(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 4/14(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書242643節】
聖書全体を見てみると、この世に在らざる者としての幽霊や亡霊の記載はあります。聖書は、復活の主が現れる箇所です。これ以前にも主は、エマオ途上で弟子たちに現れます。また弟子の言葉によれば、復活の主はペトロにも個別に会った様子でした。少なくとも復活の主に会った三人がこの場に居ます。しかし主の登場に一同は恐慌状態、素の姿です。

「平和があるように」と主の言葉ですが、これは固い翻訳です。実際は「どうだい?」日常的な挨拶です。その挨拶の言葉をここで語るということは、主には変わらぬ日常の一コマだったのです。主は挨拶と手足を示します。主の声が恨みを持っていたならば、恐慌状態で弟子たちは遁走したでしょう。だが柔和な主でした。その姿形や様相を示すことで弟子たちを赦免したのです。主のみ前に、赦されない罪はないのです。それは確かです。

だが弟子たちは「信じられない」のです。もちろん、この後の弟子たちはやがて信じたのでしょうが、主の復活を見て「信じられない」彼らを記す聖書に、私は誠実を見ます。人間とは揺れるものです。目前の状況で心を変えるのです。僅か数日前のペトロがそうでした「命を捨てます」主を防御する思い100%でした。それが逃げたのです。主はここで疑と真との間を揺れる人を容認したのです。疑いの人に、繰り返し真理を示すのが主です。

何時かは真になって欲しい,心からの信仰を抱いて欲しい。主は決して急ぎません。むしろ、100%純粋な信仰は危うい。100%の信仰は挫折した時失望しか残りません。ペトロが然りでした。けれど、挫折した者も躓いたものも、主の眼差しから落ちないのです。ペトロが然りでした。信仰者には正確な意味での「七転八倒」はありません。「七転」はあるが「八倒」はないのです。倒れても倒れ続けず、挫けても差し伸べる手があるのです。