ステンドグラスからの光が良し。
5/19 徳山礼拝後の写真です。
柳井や六日市の様子も撮りたいと思っています。
今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。
礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。
5/21 火曜日 15時 徳山聖研
5/22 水曜日 19時 六日市C礼拝
5/25 土曜日 15時 柳井C礼拝
5/26 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
5/28 火曜日 15時 徳山聖研
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ヨハネ13章31-35節】
「愛の掟」は、「愛敵の教え」と並び私たちを戸惑わせることがある主の言葉でしょう。「愛の範囲」「度合い」などが疑問として浮かびます。またそもそも「愛」とは、人の心に自ずと芽生えるものであり、強制や命令されるものではないとも感じます。そして、愛の掟を自らに課し、それがために自身の心に無理をすることは危険です。そもそも無理をする愛が愛なのか、というところも課題です。「愛の掟」を弟子たちはどう受け止めたのか。
弟子たちは、私たち程には深刻に受け止めなかったと感じます。弟子たちのみならずユダヤの人々の心には「十戒」という前提がありました。今日の聖書の「新しい掟(34)」に対応する旧約聖書の教えです。「十戒」とは、神さまが人間に与えたものであり、その不十分さを十分お感じになった上で賜うものなのです。十戒は一度人間によって破棄されましたが、再度それが与えられました。また内容も、人間の性向を踏まえ記載されたものなのです。つまり「人は不完全、不十分」との前提で愛を行うことが示唆されるのです。
「互いに愛し合いなさい」の言葉だけでは戸惑います。「主が私たちを愛された」ことは分かりますが、そのように互いに愛を向けることは出来ない。ここだけではそう結論付けることしかありません。けれど、主と私たちとは、その完全さに於いて比べようがありません。私たちなりの愛を向けて行く。それは例えば、ごくわずかな、ごく限られた範囲の愛なのかもしれません。しかし、すくまず、たじろがず、主に支えられて愛する者でありたい。
そして栄光について。この時弟子たちは、去り行くユダの背中を見ていました(30)。弟子たちには、いよいよ主の苦難が始まるという思いが満ちていたことでしょう。苦難と死、そこに終始していた弟子たちです。しかし主は「栄光」と語り、神とご自身とが相互に栄光を帰し合うことと述べられます。「苦難と死」を通って復活に至り、弟子たちと共にあることを「栄光」と言われるのです。実際、この主は悩み多い世を、不十分な器を抱えながら生きる私たちと共にあります。自らを改め、主の愛を携えて生きる群れでありたい。