だいぶ伸びています。剪定せねばなりません。
5/26 徳山C礼拝後に、花壇の手入れがなされました。
濃い色が似あいますね。
5/26 徳山Cの礼拝堂です。今年初めて冷房を入れました。
外気は30度前後かと思います。
5/25 柳井C礼拝前に、敷地内の畑を撮りました。
中央には収穫された玉ねぎ。新玉ねぎもいい味です。
5/22には六日市Cでも礼拝が行われました。
今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。
礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。
5/28 火曜日 15時 徳山聖研
5/29 水曜日 19時 六日市C礼拝
6/1 土曜日 15時 柳井C礼拝
6/2 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ヨハネ14章23-29節】
故人の思い出として聞いて頂ければと思います。私の(父方の)祖父は熱心な仏徒でした。キリスト者になった私に、所属する仏教系団体の本を渡して、キリスト教に関して色々と述べたことを思いだします。「仏か、キリストか」と真顔で言われた事には驚きました。それから祖父の家に行くと、随分と肩身の狭い思いをしたことを思いだします。「あれか、これか」選択することに困らせられる選びに直面することがあります。主の時代もそうでした。「棄教か、死か」の問いの前に、主も「み言葉を守るか、守らないか」と問いかけるのです。
「守るか、守らないか」このような択一の問いは弱ります。心情的には主のみ言葉に生きる者として、現実的にはこの世に生きる者として、その場に応じた態度を取ることがあります。結果として主の愛の言葉以上に、自身の本心、本音に忠実になる。私たちの現実は「平和、平安」ということはない。私たちにも「敵」がいることがその原因でしょう。具体的に反目する人、或いは仕事の重圧、私たちの心身に在す病苦、いわゆるストレスが私たちの信仰を阻む。しかしその中で私たちはこのみ言葉と説教を読んでいるのです。
つまり、私たちは既に「み言葉を守る者」とされている。そして「み言葉に守られる」者なのです。加えて主は「聖霊が全てを教える」と語ります。これこそが「あれか、これか」の前に立ちすくむ私たちへの福音なのです。見えない聖霊を語ることは、抽象論の応酬になる危険性も踏まえます。しかし聖霊とは、使徒言行録を通して「人や出来事を通して働く」と示唆されています。つまり、困難な選択を迫られるとき、それに伴う形で神さまの助けがある。それが「平和(平安、大丈夫)を与える」という主の言葉の内実になるのです。
29節「出かけよう」と言われた主は、この時は宗教者と対峙するお気持ちだったのか。しかし思い返されたかのように「ぶどうの木」の話を始められます。「神さまとあなたは繋がっている」ことを弟子たちに強調するために、主は留まられたのです。私たちもこの繋がりの中にあるのです。主が悩める私たちの心に共にある。覚えつつ、生きたい。