2020年2月10日月曜日

2/8.9 礼拝堂と梅

  2/9(日)徳山教会の入口です。
 教会を利用される、「歌声を楽しむ会」の利用者の方がスロープを作成して下さいました。家を解いたその廃材を用いられたとか。家の廃材が、神の配剤で用いられています。
  2/8(土)柳井教会の梅の花です。一分咲き?
2/9(日)防府教会の梅の花です。一分咲き?

 今週、来週の予定は下記の通りです。

2/12 水曜日 19時 六日市礼拝

2/14 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
2/15 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/16 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 513-16
イスラエルの観光名所の一つに「死海」があります。塩分濃度が高い湖、地上で海抜が最も低い位置にある湖。この湖や湖周辺にある「塩」は、食用には適さないということです。何故か。それは、「不純物」が混入している、具体的には「にがり」があるため、苦みを感じるということです。聖書の「(貴重品である)塩が味を無くして捨てられる」という話はこの死海塩を下敷きにしていると思われます。塩の本質が失われることがないように、それは転じて言えば、「私たちの本質が失われないように」という主の御心でしょう。

それでは、「私たちの本質」は何か」。それは「私たちが地の塩、世の光」ということです。私たちはここでも主のみ言葉に思う所が多くあります。「とても自分が…どうして私が…」と。特に主のみ言葉を聴く人の中で、「病み、患う(424)」方々はその思いが強いことでしょう。また当時の宗教者はその人々に対し、「荷物」「献品」を求めるのみの所もありました。しかし主は、あなたこそが必要だ、この世に大切な存在だ、と言われます。

なぜか。それは、光や塩の働きを考えることで分かります。光の働きは、周囲を照らすこと(15.16)ですし、その輝きは見えることに意味があります。光は「見える働き」とでも言えるでしょう。一方で塩は味付けの際に(13)、見えなくなることが肝心です(塩が見えていたのでは、辛くて食べられないでしょう)。塩は「見えない働き」とでもいえるでしょう。そうです。誰もが「見える働き、見えない働き」をそれぞれに行わせて頂いているのです。

塩の働きは、物を保つ、保持するためにも用いられます。誰もがそこに居ることで、周囲との関りに必要不可欠な味をかもし出すのです。一時の離脱は、その穴を実感させられます。また今日は柳井で祝福式がありますが、子どもの存在は私たちに光を感じさせてくれます。「神さまは私のことを必要として下さる」という神さまの愛の本質に立ちたい。その中で、私たちは光、塩として用いられていきたい。「欠け、欠点、不足」があっても、その「欠け、欠点など」から、あなたの光も塩をも周囲に自ずと漏れ出していくのです。