2025年4月24日木曜日

防府、柳井、GPT牧師

 

イースターおめでとうございます。

4/19(土)柳井ではイースターが行われました。

こちらは4/20(日)防府でのイースター礼拝。
イースターとはなんら関係のない、チャットGPTで変換してみた牧師。

「ジブリ風」とフィルタリングをしています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

4/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝
       14時30分 下関教会 牧師就任式

       15時 防府チャペル礼拝 家庭礼拝です。

4/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

5/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ20: 118 (209)

 説教            「これを見るあなたのもとに」 

  主イエスの墓参りは、ヨハネ福音書では一人の女性が行います。他福音書と異なる「一人という表記」に意味を思います。ヨハネ福音書が編集された時代は、信仰や悲しみを分ち合う友が減っている、時の状況を表すと言えます。聖書は「一人の涙」から始まります。

 

  「墓石」とは、昔も今も「生と死の境界」を示します。これは「ただの石」ではなく、「彼方」に懐かしい人を思うものです。マグダラのマリアも、「墓石」の彼方の主を覚え、安息日明けの朝、訪問します。ところがマリアが見たものは「境界」がないというその事実なのです。

 

  マリアは、「主の体」も無いという事実にも立ち尽くします。やがて「見ずに信じる幸い」をヨハネは告げますが、これは「見た」後の言葉。唐突に全てを亡くしたマリアの心情こそ悲惨です。主も、墓石も、主の体も確認できないマリアは「究極の疎外感」の渦中でした。

 

しかし主は「かなたでなく、こなた」におられたのです。「イースターおめでとう」と、私たちは礼拝前後声を掛け合います。一方でこの時この時間も、病床や在宅療養の方がいます。ヨハネ福音書が告げる復活の主は、今も、ただ一人のそばにもおられるお方なのです。



2025年4月17日木曜日

4/12.13.16 柳井、防府、六日市ライブカメラ

 

 4/16(水)六日市(吉賀町)と錦町の県境にあるライブカメラ。

 山口県錦町と、島根県吉賀町の県境ということです。

 こちら、錦町の道の駅。
こちら、4/15の徳山礼拝堂。
 こちら、4/13の防府の礼拝看板。イースターの案内を、柳井の方が

 記されました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

4/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

4/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

 説教                「弱さを恥じない」 

   イースターを控え、「主のエルサレム入城」を聞きます。弟子を含む人々は、主を歓待します。なぜなら主が「ゼカリア書」をふまえた「王」の入城を示したからです。ところが主は、ゼカリア書の意図の続きをやがて表します。今の歓待はやがて罵声へと変わるのです。

 

  ゼカリア9:9には「ロバ」に乗る「王の到来」が告げられます。主はゼカリア書と異なり、「子ロバ」と注文されました。この違いをどう見るでしょうか。背丈、体重が「幼年、未熟」という意味です。しかし弟子たちは主が、既存の勢力を退ける「即位宣言」と見、歓待します。

 

  これを主は、悲しんで受け止めたと見ます。ゼカリア9章の続きは「エルサレム側の戦車と軍馬を断つ」武力を処分する記載です。ゼカリアの意図を明確にするため、主は「弱さ」を強調した選びを行いました。しかし人々はみ言葉を忘れ、「非暴力」の主に幻滅します。

 

  み言葉を忘れ、期待外れを恥じず、罵声を浴びせる人々が、主の最期を見届けました。弟子たちはいません。しかし主はそれを受け入れ、復活の日を待ちます。復活後の主は、離れた弟子たちを求め、働きを続けます。主は「ロバ」ではなく「子ロバ」を求められました。

















2025年4月12日土曜日

4/6 芝桜、山賊桜

 

 4/9(水)六日市と錦町の県境「山賊」の一角からの写真です。

 足湯は営業中止中でした。

4/6(日)と思われる、徳山芝桜。今はもう少し咲いています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

 

4/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

4/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ12: 1 8 (191)

 説教               「今日、できること」 

   「ラザロの復活(11章)」はラザロ家に喜びを、「最高法院」には主への嫉妬を与えました。エルサレム入城前に、主は再び「べタニア」に向かいます。この村は「悲しむ者の村」という意味です。主は人々の「悲しみ」に、ご自身の心と歩みを寄せられる「証し」となります。

 

   ラザロ家で、再度宴席が開かれます。マルタはもはやマリアを罵倒せず、主を「もてなし」ます。マリアは一年分の労働価値の「香油」を主に塗ります。兄弟ラザロを「復活」させた主への感謝の思いと見なせます。マルタもマリアも「今ここで」出来ることを行うのです。

 

ユダの「施しに使えたのに」という進言は、金銭的には合理的に聞こえます。一人よりも大勢の幸福を考えることが出来るからです。しかしユダの内心が明かされます。そして主とユダの見ているものの違いが明らかにされます。それは「人の真心」という点になります。

 

ユダが見失い、主が見たものは「真心」でした。一方で、ユダが気にしていた「貧しい人々」のことも主は気にされます。今は「一緒に居られない」ですが、十字架によって「いつも共にいる」ようにされました。私たちは今日、真心の行いが主の眼差しにあると覚えたい。


2025年4月1日火曜日

3/29.30 柳井、防府の水仙、徳山ジャガイモ、今日出来ること

 

 4/6(日)礼拝説教題は「今日、できること」

 今日考えている仕事の完成までは、道半ば…にも至っていません。

 徳山ジャガイモ。3/10作付けから3週間。芽が出てきました。
 3/30(日)防府の納骨堂。水仙が咲き始めました。

 この水仙の香りは強いのです。

 説教壇に飾られていますが、礼拝堂入り口でも香ります。
 3/29(土)柳井礼拝堂。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

4/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝  

4/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

4/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ15: 1 3,11b32 (138)

 説教            「神は夕日にたたずむ」 

    この「放蕩息子のたとえ」は、聞き手の「金に執着するファリサイ派」が「あざ笑う(16:14)」のです。「長子権」や「放蕩者の追放規定(申21)」を逸脱している、荒唐無稽な「父」を語るからです。主は「逸脱」と見られた人々(15:1)の「救い」を意図しています。

 

    「弟」は「小悪」程度の認識かもしれません。「故郷に帰ろう、父に雇われる」と思うからです。甘すぎます。「帰った場合」規定では「石打」です。退廃的であり、み言葉を読まない彼は「ファリサイ派」と対照的位置づけです。ただ弟は帰り、迎えたのは死でなく父でした。

 

「嘲笑」のポイントは「弟の思考、父の歓待、語った主」です。ファリサイ派の語る神は「道徳的正しさ」を喜ぶ方です。一方主は、エゼ33:11「悪人正機」を喜ぶ神に基づきます。主は「正しさ、誤り以前に、神は人に顔を向ける」神「アロンの祝福」の神を示します。

 

    この話は「悔い改めに至らない」人にも触れます。優遇に怒る「兄」に「父」は、屋外に出ます。「神は慰めが必要な所に行く」ルカの使信です。ルカ15章のたとえ話は、積極的な「悔い改め」を推奨する話ではありません。「探し求める」神さまの姿をまず描くのです。