2026年1月27日火曜日

1/21六日市、1/24柳井、1/25防府、1/27徳山


1/21(水)六日市礼拝の帰り道。

「最強寒波」なるものが訪れようとしていた頃でした。

車外温度は-1度。

一転、1/27(火)徳山礼拝所。
献花が捧げられました。
暖色系のカーペットは暖かさを感じさせます。
1/25(日)防府礼拝所。梅が咲いています。
1/24(土)柳井礼拝所。こちらの献花も感謝です。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


1/28 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/25(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

顕現節3主日 説教 

マタイ福音書412-22節 「足元を照らす光」

水原一郎

① 今日の福音書は、主イエスがガリラヤに現れた場面から始まります。私たちは「光」と聞くと、遠くを照らす強い光、先の見通しを与える光を思い浮かべがちです。しかし現実の歩みの中で、私たちが本当に求めているのは、もっと切実な光ではないでしょうか。次の一歩が見えないとき、足元を照らす小さな光です。今日、主イエスは「ガリラヤの人々」である漁師たちに、まさにその光を与えられました。ガリラヤは、主イエスの時代より七百年前から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。しかし預言者イザヤは告げました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」。マタイは、この言葉を重ねることで、神さまの光は、足元が見えない場に差し込むのだ、と語っているのです。

 

②  主イエスがガリラヤに退かれた直接のきっかけは、「洗礼者ヨハネの逮捕」でした。ヨハネは、当時の宗教的常識を揺さぶり、権力者の不道徳を批判したために捕らえられます。主イエスはその知らせを聞き、ガリラヤへ退かれました。人の目には、危険を避けた後退、あるいは逃避のように映ったかもしれません。しかし、ここに神の不思議があります。主イエスは、光が最も必要とされる場所へと身を置かれました。先行きが見えず、声を上げる者が押さえ込まれる現実の中で、神の国を告げるためです。

 

③ そのガリラヤで、主イエスは宣言されます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは洗礼者ヨハネが語った言葉と同じです。しかし、語られた場所が違います。宗教的に整えられた「中心」ではなく、「暗闇の地」と呼ばれた場所で、この言葉が響きました。それは、神の国が遠い未来や特別な舞台から始まるのではなく、足元がおぼつかない現実の中で、すでに近づいているという宣言でした。光は、遠くを照らす前に、まず立っている場所を照らします。ガリラヤの人々は、その光に驚きつつも、心の奥で久しく消えかけていた希望が灯るのを感じたことでしょう。

 

④  その光は、漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネにも届きます。彼らは学者でも宗教指導者でもありません。日々の糧を得るため、網を投げ、舟を出し、同じ作業を繰り返す人々でした。マタイは、ルカ福音書の「魚が取れない」という出来事を記していません。しかし、だからこそ見えてくることがあります。彼らが捨てたのは、単なる仕事道具ではありませんでした。網や舟は、生活の支えであり、自分が何者であるかを示す拠り所でした。それを手放すことは、不安定な未来に身を委ねることでもありました。それでも彼らは従いました。なぜでしょうか。主イエスの言葉の中に、「神の眼差しは、あなたの今の場所から離れていない」という確かさを聞いたからです。足元を照らす光が、既に自分たちの立つ岸辺に差していると、彼らは感じたのです。

 

⑤ 今年11月まで、私たちは主としてマタイ福音書から御言葉を聞いていきます。マタイは一貫して、「神の恵みは特別な人や場所に限られない」と語ります。「自分の人生は先が見えない」「今週をどう乗り切ればよいのか分からない」。そのような思いを抱えながら、ここに座っておられる方もいるでしょう。今日、あなたが立つガリラヤはどこでしょうか。職場での行き詰まり、家庭での不安、将来への決断を迫られている場所かもしれません。主の光は、まずその場所に差し込みます。遠くの答えを一気に示す光ではなく、次の一歩を踏み出す足元の光としてです。その光を信じ、安心して、今週の歩みを始めていきましょう。主イエスご自身が、あなたの「今ここ」に近づかれます。


























2026年1月20日火曜日

1/17柳井、1/18防府の梅、1/17徳山

 

1/18防府礼拝所です。

ここ数日の暖かさで、梅のつぼみが膨らみました。

今週1/20-24の寒波を凌げば、二月はもうすぐそこです。

1/17柳井礼拝所。今日もこの会堂が、皆様の祈りと賛美に満たされました。

1/20 徳山礼拝所の牧師室。
皆さまがお捧げ下さった鉢が、ここで育てられています。

奥から2023年防府ポインセチア、2024年防府ポインセチア、2024年徳山アンスリウム、
2025年徳山シクラメン。映っていませんが、こちらには2025年徳山ポインセチア、
2024年徳山アンスリウム、2022年防府ポインセチア。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


1/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/18(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

顕現節第2主日 説教 

ヨハネ福音書1章29-34節 「曲がり角を照らす光」

水原一郎

 詩編23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあります。この言葉には、「必要なものは、神さまが備えて下さっている」という信頼があります。しかし、この言葉を私たちは常に確信をもって言えるわけではありません。とりわけ「先が見えない状況、曲がり角、途方に暮れる日々」には、詩編22編「わが神」のほうが近いことがあります。今日の洗礼者ヨハネは、確信や信頼よりも、むしろ「分からない」という場所に立っています。確かにヨハネは自分の方へ来られる主イエスを見て、確信をもってこう語りました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ただ洗礼者ヨハネは31節、33節で「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。


 まず、「小羊」からです。これは当時、神殿で神に献げられる犠牲の動物でした。旧約聖書のレビ記に定められているように、罪の赦しと深く結びついた存在です。ただし、レビ記が語る「罪の赦し」は、「小羊を捧げたものだけに与えられる赦し」限定的な赦しでした。一方でヨハネが主イエスを「神の小羊」と呼ぶときには、そこには限定はありません。「世の罪」を赦す方、つまり限られた人々ではなく、世界全体の罪を担うお方だという宣言です。赦しは人間の努力の結果ではなく、神の側の決断と備えによって与えられる。それが、主イエスの存在そのものなのです。全ては神さまから与えられているものであること。それは、確かに主イエスが私たちに与えられていることでもあります。そして、結びで触れる私たち一人ひとりの行く道にも当てはまります。


 ここで、先に降れた興味深い言葉が語られます。ヨハネは31節、33節「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。ルカ福音書では、ヨハネと主イエスは誕生以前から結びついていました。母同志がいとこと見られています。しかしヨハネ福音書は、「知らなかった」と記します。どちらが正しいのか、事実は問いません。ヨハネが、自分の知識や経験、先入観によって主イエスを理解したのではないことを強調しているのです。ヨハネは、神さまが示されたから、初めて分かったのです。神さまは、歩みの過程で、必要な時に、必要なことを示される。その仕方が、ここに描かれています。


 このことは、現代を生きる私たちにも重なります。私たちは、できれば先の見通しをすべて知ってから動きたいと思います。「全て」とは言い過ぎかもしれません。今手掛けていることの結果、この一カ月、この数カ月の日々を。しかし信仰の道は、常にそうではありません。道案内のナビは、次の曲がり角までは教えてくれますが、すべての景色や出来事を前もって示すわけではありません。それでも、示された方向に従って進めば、目的地にたどり着きます。信仰も同じです。神さまは、人生のすべてを説明されることはないと受け止めています。むしろ、今、進むべき一歩を光で照らしてくださいます。曲がり角であっても、その導きの一歩に従うところに、顕現の恵みがあります。


 「曲がり角を照らす光」は、具体的な形で私たちの前に現れます。その一つが、祈りです。私たちは、迷いながら、不完全なまま歩みます。間違えること、不安になることもあります。祈りとは、そのような曲がり角において、なお神さまの方を向き直ることです。言葉にならないうめきであっても、祈りにならない祈りも、神さまはそれを受け止めてくださいます。そのようにして、神さまは私たちの足もとを、次の一歩を照らしてくださいます。顕現の光に照らされ、この一週の歩みを進めましょう。


2026年1月13日火曜日

1/7六日市、1/10柳井、1/11防府、1/12県境、1/13徳山

 

1/12(月)寒波と言われている日の朝、山口県と島根県の県境です。

こちらは「youtube」の「アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信」。

アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信  1/14(水)はどうなるでしょうか。

1/13(火)徳山は朝から冷たい雨が降っています。

しかし天気予報はこの日は11時過ぎから晴れ。

どうなるでしょうか。

1/11(日)防府礼拝所。

ポインセチアはまだ元気。

1/10(土)柳井礼拝所

献花は菜の花でした。

1/7(水)今年初めての六日市での「集う形」での礼拝でした。

天候は穏やかな一日でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/14 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/11(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の洗礼日 説教 

マタイ福音書3章13節-17節 「先にある赦し」

水原一郎

 今日は、主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられる場面です。この聖書箇所は、毎年の1月第2週に与えられています。ですから毎年私たちは、年の初めに「なぜ主が洗礼を受けられたのか」という問いを向けられるのです。その問いを解くために、主が洗礼を受けることで「何が変わったのか」「今までとの違いは何か」という見方から、この聖書の出来事の意味を改めて受けとめたいと思います。


 まず、変えられた出来事です。それは「赦しの順番」でした。主イエスの時代、「赦し」には順番があると考えられていました。まず律法を守ること。しかし人は弱く、過ちは起こります。そこで神殿に行き、いけにえを捧げ、赦しを得るのです。「赦しを得るための行いが先で、赦しは後のこと」という順番です。この常識に風穴を開けたのが、荒野の預言者ヨハネでした。「悔い改めて洗礼を受けよ。そうすれば赦される」。ヨハネが飛び越えたのは、神殿での祭儀でした。しかし順番は崩しませんでした。「悔い改めを行う。そして赦しが与えられる」。つまり「人間の側の動き」が先だったのです。


 そこへ主イエスが現れます。そして「私にも洗礼を授けてほしい」と言われます。ヨハネは驚きます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきだ」(14節)。ヨハネの言葉の根っこには、自らの罪を告白するという行い、そして罪への赦しとしての洗礼があります。ヨハネは自分の罪を具体的には語りません。ただ、主イエスの「洗礼の申し出」に対し、当時の宗教観に裏打ちされた「人間の行いを先に示し、赦しを頂く」という順番を示すのです。この点を見れば、洗礼者ヨハネも「時代の中に生きる人間」でした。

 しかし主イエスは言われます。「今は、止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」と。ここで見えてくるのは、主イエスが「罪の告白」や、「人間の側の心の整理」を、赦しの前提条件としては置かれなかったということです。神さまは、赦しを先に差し出してくださるお方であるとしたのです。主イエスはそのことについて「正しい」という、大切な表現を用います。かつて主イエスの父ヨセフが、律法に背く形となっても妻マリアや幼子を守る決断を「正しい」としたことが思い起こされます。神さまは、罪ではなく、神さまを見つめて生きることを望まれるのです。


 主イエスが洗礼を受けた瞬間、天が開かれ、声が響きました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。この宣言は、当時当たり前とされていた「赦しの順番」とは異なる道を歩み始めた主イエスに対する、神さまの深い肯定の言葉と受け取ることができるでしょう。赦しの真理が、この天の声によってはっきりと示されたのです。


 主イエスは、その生き方を通して、この神さまの愛の順番を示し続けられました。「山上の説教」の直後、主は人々が近づく前に重い病の人に触れられました。九章では、蔑まれていた徴税人を、悔い改めの証しを待たず、先に名を呼んで招かれました。私たちは今も、「正しくならなければ」「きちんと悔い改めてからでなければ」と思いがちです。しかし福音書が語るのは、その逆です。主は、整ってから名を呼ばれるのではなく、名を呼ばれることによって、新しい歩みを始めるお方です。もし一週間の中で失敗したとしても、人を傷つけてしまったとしても、自分を責める夜があったとしても、その前に、神さまはすでにあなたの名を呼んでおられます。神さまと主イエスの導きと聖霊の満たしに身を委ね、安心して新しいこの一週間の日々を歩み出しましょう。


2026年1月6日火曜日

1/3柳井、1/4防府、1/6徳山、1/6山口・島根の県境

 

1/6(火)徳山チャペルの朝。

十字架と花台に朝日が差し込むこの瞬間が好きです。

1/4(日)防府チャペルの礼拝前。

礼拝後にはおぜんざいを頂きました。

1/3(土)柳井チャペルの礼拝前。

聖餐式の用意が整えられています。

こちらは、「youtube」の「アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信」。
アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信
1/6(火)9:30頃の峠道。雪は残っていますが、道路は快適。
明日、この道を通って六日市に行くことになります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/7 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/14 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/4(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


顕現主日 説教 

マタイ福音書2章1節-12節 「神が下さる贈りもの?」

水原一郎

① 今日は顕現主日です。占星術の学者たちが幼子イエスに贈り物を捧げた出来事を覚えます。けれど私たちは、人が主イエスに贈ったもの以上に、神さまが私たちに贈ってくださったものに目を向けたいと思います。主イエスご自身が、神さまの贈り物です。


② 占星術の学者たちの贈り物には、象徴的な意味が見出せます。まず「黄金」。列王記上102節には、シェバの女王がソロモン王に多くの黄金を贈ったと記されています。そこから、黄金を王の象徴と見ることができます。しかし、主イエスは王宮ではなく、ルカ福音書では飼い葉桶、マタイ福音書ではベツレヘムの家におられました。その生涯も、王座とは無縁でした。人々が生きる場所に生きる方。それが主イエスでした。


③ 次に「乳香」。乳香はレビ記215節で、神さまへの供え物として用いられました。そこから、乳香は「礼拝を捧げるもの」と「神さまを示すしるし」と見ることが出来ます。けれど主イエスは、「礼拝の場」である会堂や神殿に留まりませんでした。「神さま」としてのしるしを誇りもしませんでした。むしろ神殿、会堂の外に追いやられた罪人や徴税人と共に過ごしました。神さまから遠ざけられた人々に、神さまの愛を伝えたのです。さらに、マタイ23章では、礼拝を特権化するファリサイ派を厳しく批判しています。主イエスは、祈る人々にも、祈ることが出来ない人々のもとに身を置いた方でした。


④ 最後に「没薬」です。没薬は防腐剤や薬として用いられ、ヨハネ19章では主イエスの埋葬の場面に登場します。死の象徴と見ることが出来ます。ここでの学者の贈り物には、主イエスがやがて十字架の死に向かうことが示唆されています。クリスマスは主イエスの誕生を祝いますが、やがて四旬節、受難週と進み、死に至る道へと続きます。人々はイエスに期待し、やがて裏切りました。誰もが「終わった」と思った十字架の死――しかし、神さまはその先に復活と永遠の命を用意しておられました。なぜか。それは全て「主イエスを私たちと共に居らせるため」のことでした。


 黄金、乳香、没薬――学者たちは、「これこそふさわしい」と信じて贈り物を携えてきました。幼子イエスへの敬意がありました。しかし同時に、そこには人間の期待も込められていたことでしょう。王であってほしい。神らしくあってほしい。救い主として、分かりやすい力を示してほしい。けれど主イエスは、人が思い描いた姿のままには現れませんでした。目立つ場所ではなく、静かな家におられ、力を誇ることなく、人々の生活の中を歩まれました。顕現とは、「期待どおりの神が示された」という出来事ではありません。むしろ、「人の期待を超えた仕方で、神がご自身を現された」出来事でした。


 私たちも新しい年の初めに、それぞれの願いを思い描きます。こうなって欲しい、これだけは守られたい。或いは、大きな願いはなくても、日常が穏やかに続いてほしいと願います。しかし現実の歩みは、私たちの思い描いた通りに進まないことがあります。予定が崩れ、努力が報われないと感じる時、私たちは「神はどこにおられるのか」と問いかけます。そのとき思い起こしたいのが、聖書の言葉です。「私は植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」。博士たちは贈り物を携えて旅をしました。しかし、旅路を導かれたのは神さまご自身でした。私たちもまた、自分にできることをしながら、結果や成長を神さまに委ね、この一年を過ごしましょう。