「最強寒波」なるものが訪れようとしていた頃でした。
車外温度は-1度。
一転、1/27(火)徳山礼拝所。今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
1/28 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
2/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/25(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
顕現節3主日 説教
マタイ福音書4章12節-22節 「足元を照らす光」
水原一郎
① 今日の福音書は、主イエスがガリラヤに現れた場面から始まります。私たちは「光」と聞くと、遠くを照らす強い光、先の見通しを与える光を思い浮かべがちです。しかし現実の歩みの中で、私たちが本当に求めているのは、もっと切実な光ではないでしょうか。次の一歩が見えないとき、足元を照らす小さな光です。今日、主イエスは「ガリラヤの人々」である漁師たちに、まさにその光を与えられました。ガリラヤは、主イエスの時代より七百年前から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。しかし預言者イザヤは告げました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」。マタイは、この言葉を重ねることで、神さまの光は、足元が見えない場に差し込むのだ、と語っているのです。
② 主イエスがガリラヤに退かれた直接のきっかけは、「洗礼者ヨハネの逮捕」でした。ヨハネは、当時の宗教的常識を揺さぶり、権力者の不道徳を批判したために捕らえられます。主イエスはその知らせを聞き、ガリラヤへ退かれました。人の目には、危険を避けた後退、あるいは逃避のように映ったかもしれません。しかし、ここに神の不思議があります。主イエスは、光が最も必要とされる場所へと身を置かれました。先行きが見えず、声を上げる者が押さえ込まれる現実の中で、神の国を告げるためです。
③ そのガリラヤで、主イエスは宣言されます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは洗礼者ヨハネが語った言葉と同じです。しかし、語られた場所が違います。宗教的に整えられた「中心」ではなく、「暗闇の地」と呼ばれた場所で、この言葉が響きました。それは、神の国が遠い未来や特別な舞台から始まるのではなく、足元がおぼつかない現実の中で、すでに近づいているという宣言でした。光は、遠くを照らす前に、まず立っている場所を照らします。ガリラヤの人々は、その光に驚きつつも、心の奥で久しく消えかけていた希望が灯るのを感じたことでしょう。
④ その光は、漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネにも届きます。彼らは学者でも宗教指導者でもありません。日々の糧を得るため、網を投げ、舟を出し、同じ作業を繰り返す人々でした。マタイは、ルカ福音書の「魚が取れない」という出来事を記していません。しかし、だからこそ見えてくることがあります。彼らが捨てたのは、単なる仕事道具ではありませんでした。網や舟は、生活の支えであり、自分が何者であるかを示す拠り所でした。それを手放すことは、不安定な未来に身を委ねることでもありました。それでも彼らは従いました。なぜでしょうか。主イエスの言葉の中に、「神の眼差しは、あなたの今の場所から離れていない」という確かさを聞いたからです。足元を照らす光が、既に自分たちの立つ岸辺に差していると、彼らは感じたのです。
⑤ 今年11月まで、私たちは主としてマタイ福音書から御言葉を聞いていきます。マタイは一貫して、「神の恵みは特別な人や場所に限られない」と語ります。「自分の人生は先が見えない」「今週をどう乗り切ればよいのか分からない」。そのような思いを抱えながら、ここに座っておられる方もいるでしょう。今日、あなたが立つガリラヤはどこでしょうか。職場での行き詰まり、家庭での不安、将来への決断を迫られている場所かもしれません。主の光は、まずその場所に差し込みます。遠くの答えを一気に示す光ではなく、次の一歩を踏み出す足元の光としてです。その光を信じ、安心して、今週の歩みを始めていきましょう。主イエスご自身が、あなたの「今ここ」に近づかれます。



