1/18防府礼拝所です。
ここ数日の暖かさで、梅のつぼみが膨らみました。
今週1/20-24の寒波を凌げば、二月はもうすぐそこです。
1/17柳井礼拝所。今日もこの会堂が、皆様の祈りと賛美に満たされました。1/20 徳山礼拝所の牧師室。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
1/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
1/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
1/18(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
顕現節第2主日 説教
ヨハネ福音書1章29節-34節 「曲がり角を照らす光」
水原一郎
① 詩編23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあります。この言葉には、「必要なものは、神さまが備えて下さっている」という信頼があります。しかし、この言葉を私たちは常に確信をもって言えるわけではありません。とりわけ「先が見えない状況、曲がり角、途方に暮れる日々」には、詩編22編「わが神」のほうが近いことがあります。今日の洗礼者ヨハネは、確信や信頼よりも、むしろ「分からない」という場所に立っています。確かにヨハネは自分の方へ来られる主イエスを見て、確信をもってこう語りました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ただ洗礼者ヨハネは31節、33節で「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。
② まず、「小羊」からです。これは当時、神殿で神に献げられる犠牲の動物でした。旧約聖書のレビ記に定められているように、罪の赦しと深く結びついた存在です。ただし、レビ記が語る「罪の赦し」は、「小羊を捧げたものだけに与えられる赦し」限定的な赦しでした。一方でヨハネが主イエスを「神の小羊」と呼ぶときには、そこには限定はありません。「世の罪」を赦す方、つまり限られた人々ではなく、世界全体の罪を担うお方だという宣言です。赦しは人間の努力の結果ではなく、神の側の決断と備えによって与えられる。それが、主イエスの存在そのものなのです。全ては神さまから与えられているものであること。それは、確かに主イエスが私たちに与えられていることでもあります。そして、結びで触れる私たち一人ひとりの行く道にも当てはまります。
③ ここで、先に降れた興味深い言葉が語られます。ヨハネは31節、33節「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。ルカ福音書では、ヨハネと主イエスは誕生以前から結びついていました。母同志がいとこと見られています。しかしヨハネ福音書は、「知らなかった」と記します。どちらが正しいのか、事実は問いません。ヨハネが、自分の知識や経験、先入観によって主イエスを理解したのではないことを強調しているのです。ヨハネは、神さまが示されたから、初めて分かったのです。神さまは、歩みの過程で、必要な時に、必要なことを示される。その仕方が、ここに描かれています。
④ このことは、現代を生きる私たちにも重なります。私たちは、できれば先の見通しをすべて知ってから動きたいと思います。「全て」とは言い過ぎかもしれません。今手掛けていることの結果、この一カ月、この数カ月の日々を。しかし信仰の道は、常にそうではありません。道案内のナビは、次の曲がり角までは教えてくれますが、すべての景色や出来事を前もって示すわけではありません。それでも、示された方向に従って進めば、目的地にたどり着きます。信仰も同じです。神さまは、人生のすべてを説明されることはないと受け止めています。むしろ、今、進むべき一歩を光で照らしてくださいます。曲がり角であっても、その導きの一歩に従うところに、顕現の恵みがあります。
⑤ 「曲がり角を照らす光」は、具体的な形で私たちの前に現れます。その一つが、祈りです。私たちは、迷いながら、不完全なまま歩みます。間違えること、不安になることもあります。祈りとは、そのような曲がり角において、なお神さまの方を向き直ることです。言葉にならないうめきであっても、祈りにならない祈りも、神さまはそれを受け止めてくださいます。そのようにして、神さまは私たちの足もとを、次の一歩を照らしてくださいます。顕現の光に照らされ、この一週の歩みを進めましょう。


