2026年2月17日火曜日

2/10富士山、2/14柳井、2/15防府、2/17徳山、じゃがいも畑(予定)

 

2/16(月)久しぶりの農作業。

荒れていた畑の草を引いて、耕して、発酵鶏ふんを鋤きました。

植え付けは2月下旬ごろ。入れるのはじゃがいも。

2/17(火)朝の徳山礼拝所。
2/15(日)防府礼拝所。そういえば先週は雪でした。

今日は礼拝堂、暖房が不要でした。

2/14(土)柳井礼拝所。「一粒の麦」の給食で、チョコレートをいただきました。

2/10(火)上京中に、富士山を撮影。

なんとなく、撮りたくなります。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の変容主日 説教 

マタイ福音書171-13節 「輝きは、下ってゆく」

水原一郎

① 主イエスは、三人の弟子を伴って高い山へと登られました。その山上で、弟子たちは驚くべき光景を目の当たりにします。主イエスの顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなったのです。今日、登場したモーセもかつて、シナイの山で神と語り、その顔は光を放ちました(出エジ34)。しかし、それは神の栄光を受けた光、反射された輝きでした。いま、弟子たちの前で輝くイエスの光は、反射ではなく、ご自身が光の源でした。真の神の子として、主イエスは天の栄光をまとい、山の頂に立っておられたのです。


② モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ったことは、ことにペトロに大きな衝撃を与えました。律法の代表モーセ、預言者の頂点に立つエリヤ。ペトロを含む弟子たちは恐れのあまり、ひれ伏し、身動きできなくなります。恐れの中で、ペトロは口にします。「主よ、ここに仮小屋を三つ建てましょう。」主イエスには輝きを失って頂きたくない、自分たちはここに留まりたいという二つの切実な願いでしょう。ペトロは、主イエスのために一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ、と語りました。知らず知らず、主イエスを律法と預言の代表者と並べ、栄光を囲い込もうとしたのです。仮小屋とは、旧約で語られる「幕屋」を思わせます。神の臨在を、安心できる形の中に留めておきたいという、人間の願いの表れでもあります。しかし神は、その提案には答えず、ただ一言「これに聞け」と語られました。栄光は、留め置くものではなく、従って歩む方にこそ宿るのです。


③ しかし、その恐れのただ中で、主イエスは弟子たちに近寄り、手を触れて語りかけます。「起きなさい、恐れることはない。」弟子たちへの言葉かけ、慰めが記されるこの場面はマタイだけが伝える、極めて印象深い光景です。神の栄光を身にまとうお方は、同時に私たちのそばに近づき、手を差し伸べる憐れみの主でもあります。主イエスは恐れに囚われた弟子たちを優しく立たせ、再び歩みを進めさせました。この「恐れることはない」という言葉は、ただ山の上だけに留まるものではありません。


④ 輝かしい山の出来事を終えた主イエスは、弟子たちを伴って山を下りて行かれます。しかし、山を下りたその場所で、すぐに彼らを待っていたのは、またもや「恐れ」に囚われた一人の父親の姿でした。その父は、息子の重い病に苦しみ、悪霊の仕業によって息子の命さえ危ういと恐れていました。ここでも主イエスは、山の上で弟子たちにしたのと同じことをなさいます。つまり、恐れに囚われた者に近寄り、憐れみをもってその苦しみを受け止められたのです。主イエスは、輝きの栄光に「仮小屋に」留まることなく、山の上でも下でも、恐れる人々の現実のただ中に入って行かれたのです。


⑤ 主の変容の物語は、私たちの信仰の歩みをも映し出しています。私たちは礼拝の中で神の言葉を聴き、祈りをささげ、時に心が輝きに満たされるような恵みを受けます。しかし、その恵みは礼拝堂に閉じ込めておくためのものではありません。むしろ、礼拝の恵みは、日々の生活の中で出会う、人々に仕えるための光です。主イエスは今も、私たち一人ひとりに語ります。「起きなさい、恐れることはない。」神の栄光は、私たちの恐れを取り除き、愛の力で私たちを起こします。山の頂の輝きと、谷間の憐れみ。この両方を見つめながら、私たちもまた、主イエスに導かれて歩む者でありたいと願います。主の輝きは、今は礼拝堂に留まる私たちと共に、礼拝後には、遣わされる私たちを照らすものでもあります。私たちはその光に導かれ、主の後を歩む者なのです。