2017年8月27日日曜日

8/27 礼拝と海


 本日の写真は、海一枚。小浜海岸の透明な海です。
海岸の水底が見える海はすばらしい、と思わされます。
この後、益田小浜、益田元町、六日市で礼拝を行いました。


 聖書の学びは休みとなっていますが、今週、来週ともに以下の日程で礼拝が
 行われます。

9/2 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

9/3(日)10:45 徳山 礼拝 
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1413-21節】
 今日の聖書直前で、主は洗礼者ヨハネの処刑を聞きました。主と洗礼者ヨハネの関係は、洗礼のつながり、親族のつながりです。ヨハネを通して、主は神さまとのつながりを覚えましたし、またヨハネは主のまた従兄弟と言われています。処刑の知らせは、主が「退く」契機となるのです。しかしこの福音書は「退く」という言葉に特別の意味を持たせます。この出来事を通して、主が改めて「神さまと人とのつながり」を示すのです。

 今日の聖書は「五千人への給食」として名高い箇所です。なぜ食べ物が増えたか。そこに注目するのではなく、給食に至る主の心を見ていきたいのです。男性だけで五千人、女性や子どもたちも入れれば万単位の人々を前に、主は残りの食料を問われます。万単位の人々には不十分と思える残りの食料であっても、主は「分かち合う」心、人との繋がりを思います。加えて主は、その食料をまず神さまにささげ、賛美の源と為すのです。神さまから与えられた糧を、人々と分かち合おうとする主です。それが奇跡となったのです。

 この時の主が、神と人との繋がりの中に生きる姿勢を示すのであれば、弟子たちはこの時、神さまとの繋がりも、人との繋がりも忘れ去っていました。仕方がない話ではありますが、弟子たちはこの時、祈ることを忘れていますし、大勢の人々を解散させようとします。「人里離れた」場所であっても、弟子たちは「何とかなるでしょ」という気持ちだったのです。人々を心配するどころか、自身の食料を確保することが第一だったのです。

 「十字架」とは主の時代は刑具ですが、私たちにとっては主の救いの象徴です。でも「主の救い」とはどういうことか。皆さんはどのように理解していますか。それは「縦と横のつながりの保証」ということです。皆さんは、神さまとの縦の繋がりに招かれています。そして教会は、縦の繋がりを想起すると共に、兄弟姉妹が集う群れ、横のつながりもある場所です。縦と横を組み合わせると、十字架になりますし、それが私たちへの確かな救いとなるのです。魂がいろいろな出来事で渇く日々、その繋がりを大切に覚えたい。
 

2017年8月20日日曜日

8/6.8/13.8/20 礼拝と献花

ずいぶんと更新を滞らせていました。

 これは、8/19の益田小浜礼拝前の海です。

  8/20 徳山C礼拝献花。すてきな夏らしいひまわりです。

 8/13 徳山C礼拝後のバーベキュー「アサード」です。
写真は肉焼き機。
  8/13 徳山C礼拝の献花です。
 御召天になった方を覚えての捧げ花です。

  8/6 益田C合同礼拝の写真1
その2 トーンチャイム「しらゆりの会」

 8月に入って、聖書の学びは休みとなっていますが、今週、来週ともに以下の日程で礼拝が
 行われます。

8/26 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

8/27(日)10:45 徳山 礼拝 
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1344-52節】
 主は天国をお話になります。ただこの場合の天国とは、私たちがやがて行く場所のことでなく、むしろ今私たちが生きている現実そのものです。私たちの現実の中で、主は何を働き、何を語るかが今日の聖書なのです。しかし例え話の三つめは衝撃的です。良い魚と悪い魚があり、悪い物は投げ捨てられると言われます。弟子たちの内心は如何なものか。

 鯛には捨てるところがないと言われますが、私たちは鯛のような立派な魚ではない。一つでも悪い所があれば、捨てられるというのでしょうか。弟子たちにも私たちにも、三つ目の話は厳しく突き刺さります。けれど、鯛は本来、人に食べられるために生まれた訳ではありませんし、食べられない魚も然りです。それぞれが持って生まれた味なのです。その持って生まれた味ゆえに、投げ捨てられるというのはひど過ぎるように思えるのです。

 でも、三つ目の話を見る前にやはり、初めの二つを見たい。この二つがあるから、三つ目の話が効いて来るのです。「畑の宝」の話と、「高価な真珠」の話です。この二つの話に共通するのは、発見した人の奇特さです。宝のみでなく畑全体を、あるいは全財産を投げ打って真珠を購入するのです。これは「あがなう」ということなのです。弟子たちも、そして私たちも、自分自身に「真珠」「宝」を見出すことはできません。むしろ、主がそのようにおっしゃって下さる事が大事なのです。だから私たちは、悪い魚ではないのです。

 宝は畑の土中にあり、真珠は誰も見出せない所にありました。それはそのまま、私たちの混とんとした一週間を表しています。でも見出されているのは今です。混とんの日々が始まっても、どこかで私たちは「見出されているのだ」「あがなわれているのだ」という心を確かに抱きたいのです。聖書は全て、この線で私たちを支えます。神さまはモーセを通して「宝の民」と告げ、イザヤも「私の眼にあなたは値高い」と神さまの言葉を告げます。自分の宝性、真珠性は見出せなくても、他者の真珠、他者の宝は見出せると思います。その過程で、その連鎖反応で、自分自身の宝にも気づくことが出来るのです。