2023年9月28日木曜日

9/23.24 下関、西宮、そして徳山

 

 9/25(月)誰かが植えた、アサガオが露地で成長しています。

 この時期なのに・・・。

 誰かが拾ってきた大きな松ぼっくりが、「ちっこいね」

 誰かが拾ってきた小さな松ぼっくりが、「おおきいね」

 詩の世界が広がります。


 9/24(日)現実に戻って西宮教会。役員会に出席しました。

9/24(日)下関教会。一日の移動距離は何キロだったのでしょうか。

今週、来週の予定は以下の通りです。

9/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/1 日曜日 10時 聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/3 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

10/5 木曜日 16時半 会議 於:大阪

10/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/8 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

10/10 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

10/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 マタイ 20: 116 (38)

 説教                「何も無くなっても」 

この「気前のよいぶどう園」が本当に存在するとします。園主は神さまですので、園の経営は保たれます。しかし「一時間で、一日分が補償」されますから、貨幣価値は下落、労働者の勤労意欲は減退、一方で現金は溢れ、物価が上昇します。この話の要点は、「神さまはこの世の価値の基準をご存じだが、それを超えて見る」です。この話が生み出された背景を聖書から見、私たちが置かれている状況を踏まえ、この話を聞きたいと思います。

 

背景は、1916「金持ちの青年」と、1927「弟子としての勤続年数」です。いずれも「お金」「キャリア=経験、時間」を問う話です。特に弟子ペトロは「自分たちは何もかも捨てて主に従いました。何が頂けますか(1927)」と露骨です。対して主は、自身は「お金とキャリア」に思いを向けないと結論付けます。「えっ?」というペトロの落胆が伝わりますが、たとえ話(201)を通し気持ちは広がると察します。この話自体は、分かりやすいのです。

 

早朝からぶどう園で働く労働者たち(1-2)は、身近な所ではペトロたち漁師を指せます。主はペトロたちの「当初からの働き」を見られます。しかしたとえ話は、続けて募集をする主人の姿を記します。他の弟子、「女性の弟子」を招きます。主人は最後に、誰も雇わず目を掛けなかった「夕方5時の人」もぶどう園に招くのです。賃金支払いは、主人にとっての公平目線での同額が支給されます。最初の人は、同額を受け取り、落胆するのです。

 

弟子集団には、もとより理不尽なこの話が一層不条理に聞こえたでしょう。弟子たちには「主に従っている」という誇りがあったのです。ただ、「立場と状況」が変わればどうか。つまり「主に従う」の誇りが砕かれた十字架以後はどうだったか。「最後の者」の心持が理解できたと思います。「この世の価値観」に乗れず、外れ、疲れる時こそ、「主人の気前の良さ」に心を重ねたいのです。存在に重きを見る神と主イエスの視線は、私たちを支えます。



2023年9月5日火曜日

9/2.3 柳井、防府、徳山、六日市

 

 

 夏(休み)が開け、ようやく、日常が戻って来た日々です。

 記念会の日の朝。手前には二年前に召天された方を記念する

 アンスリウムという名前の観葉植物です。


今週、来週の予定は以下の通りです。

9/5 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝

9/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/10 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

9/12 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

9/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/17 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 16:2125(32)

  「失敗に育てられる」 

21節「殺される」。主は、ご自身の殺害と復活を見据え、苦難を負われるのです。苦しみを前に、それを引き受ける姿は、旧約「苦難の僕(イザヤ42)」に見られます。ユダヤが国家としての体を無くしそうな昔に生まれた「苦難の僕」です。文字通りの「困難な現状」に向かう人に、「苦難の僕」は寄り添うのです。今日の聖書を一読すると「ペトロへの叱責」となります。叱責をした主の本心はどのようなものがあったのか。この日、それを聞きましょう。

 

今日の聖書の直前でペトロは、主をメシア(救い主)と告白しました。模範解答ですが、内実は主の理解とずれています。ペトロは「模範的統治者としてのメシア」、主は「苦難の僕としてのメシア」でした。主は今日の個所で「捕われ、殺される」と言われます。「模範者が逮捕され、殺される」とは、ペトロにはあり得ないことでした。だから「脇へ連れ、諫める(22)」の状況になるのです。対して、主は「サタン、引き下がれ(23)」と厳しく言われます。

 

ペトロを「悪魔」と罵る背景は何か。「苦難の僕」としてのご自身の生き方が「第一弟子」ペトロに受容されないことを残念に思ったのです。ただ「引き下がれ」という言葉には注意が必要です。「荒野の誘惑」の際、主は「退け、サタン(410)」と言われ、ここでは「引き下がれ」。「後ろに回れ、従え」という意味です。つまり主はペトロに、ご自身の生き方への再認識を訴えます。そこから「わたしについて来たい者は(23)」という言葉が生まれます。

 

ペトロは「捨てられない自分」を現します(24)が、主は「後ろに回れ、十字架を負え」と促します。「十字架」とは見せしめの刑具で、やがてペトロは、大言壮語した後に主を裏切り、否定します。裏切ったという事実を、ペトロは「苦難の僕」である復活の主と共に引き受けます。「苦難の僕」主は、今もなお私たちと共にもあります。失敗を、失敗と引き受け、受け止めたときに、進歩が見られるのです。私たちは、どういう失敗に育てられたでしょうか。