2024年1月23日火曜日

1/20.21 柳井、徳山、防府

 1/20 柳井の礼拝堂です。風が強い日でした。
 1/21 防府の礼拝堂です。外には梅のつぼみ、水仙の若芽が出ていました。
 1/23 徳山の礼拝堂です。この冬一番の寒気とのことです。

教会の予定は以下の通りです。

1/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/30  火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。

2/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/6  火曜日 六日市チャペル礼拝 

2/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

説教の要旨は以下の通りです。

マルコ1:1420(61)

 説教              「近づく神と共に」 

    今年、私たちはマルコ福音書を読みます。4福音書の中で最初に記されたこの書物は、「主イエスを語る」ことを心掛けています。曰く、主イエスは「神の子(1)」で、「ガリラヤに行(14)」き、「神の国が近づいた(14)」と語るというのです。やがて主は「気が変になる(421)」と表現されることになりますが、これらの行動は、「常識」を超えていたのです。

 

    冒頭で、捕らえられた(14)洗礼者ヨハネは、「罪の赦し」を授ける人でした。当時は「罪」の告知が社会からの追放を意味し、復帰には金品が要り、そこには権益が発生していました。ヨハネは無償で行いましたが、種々の理由で逮捕されます。それを見た主は、ヨハネの活動した南部から異動します。「ガリラヤ(14)」を拠点とする必要を思ったのです。

 

遡る700年、ヨシヤ王の一世代前、この地はアッシリアに蹂躙されました。主の時代は「北部ガリラヤ」「中部サマリア」は被差別の土地となっていました。たとえ話の「良きサマリア人」のたとえが示す通り、南部と北・中部とは没交渉だったのです。そこに主は行き、「神の近づき」を告げるのです。地域には久しく語られなかった「福音」が届いた瞬間です。

 

その声は、ガリラヤ湖周辺の漁師たちに向かいます。地域性自体は南部から蔑視されていましたが、漁の働きは必要なものでした。人々の身体を満たす働きをしていた彼らに、主は弟子となるよう促します。彼らにとっては、自分たちが神のために働き得るという、望外の喜びがあったでしょう。この主の歩みの先に、私たちがおります。覚えて過ごしたい。


 

2024年1月18日木曜日

1/13.14 礼拝堂(柳井、防府)

 

 1月の防府チャペルの礼拝堂です。

 また、更新が開いていました。

 柳井チャペルの礼拝堂。献花が生き生きと。
 これは、なんでしょうか。場所は柳井です。もうクリスマスは終わったのに。

教会の予定は以下の通りです。

1/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/23  火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。

       教会員宅には送付します。お入り用の方はお申し出ください。

1/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

1/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

1/30  火曜日 六日市チャペル礼拝 週報を用いた家庭礼拝です。

       教会員宅には送付します。お入り用の方はお申し出ください。

2/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

説教の要旨は以下の通りです。

ヨハネ1:4351 (165)


 説教              「いちじくの木の下で」 

    「果物」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。柳井礼拝所の敷地には、「いちじく」があります。枝葉が整備され、時期には甘く香ります。聖書でいちじくは、果物の中で登場はぶどうと並びます。出エジプトの民が飢えを訴える際に、一番に懐かしむ(民205)ものでした。マカバイにも瞑想の場所として登場します。この日に、祈りの場として登場します。

 

    ヨハネ福音書では、最初の伝道者フィリポがナタナエルに、主を紹介しました。ところが彼は当初、懐疑的でした(46)。ナザレという地域が、「北」に位置していたからでした。しかし一方で彼の、いちじくの木の下での「瞑想(48)」は、主に知られていました。言い換えれば、「祈る姿が、主によって知られていた」ことです。自他の平安を求めていたのです。

 

    主は彼を「真のイスラエル人」と表現します。旧約のヤコブ(創25)は欲張りで、兄から財産継承権を奪いました(創27)。兄エサウの怒りを買い、故郷を追われ、自身の罪をつまされます。そんなある時、神と格闘(創32)、神から「イスラエル」と命名されます。「本質のまま(46)」「神と向かい合う(48)」姿が「イスラエル」と命名される由来の古事です。

 

    ナタナエルは主に「もっと偉大なこと(50)」「神の天使の昇降(51)」を見るといわれます。主イエスご自身の理解では、自身が天の神と、地の人々との仲介を、天使に続き行うとのことです。それがナタナエルに知らされます。「祈り」に限界を覚えるほどの昨今です。それはナタナエルも同様と察します。祈りの姿が知られていることを支えに、励みたい。