2023年6月28日水曜日

6/24.25 厚狭、宇部、西宮、そして六日市

 

 6/28(水)徳山チャペルの礼拝堂。

 11:40現在、外で雷がなっています。雨がふるかも。

 6/24(土)厚狭教会で挑戦していた、「最後の晩餐」のパズル。

 挑戦したのは、私ではありません。

 6/24(土)ほぼ一年ぶりの厚狭教会。

 日曜日は、午前中は宇部教会礼拝からの、夕方西宮教会の役員会でした。

今週、来週の予定は以下の通りです。

6/27 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

6/29 木曜日  15時 牧師 広島

7/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/2 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

7/4  火曜日 六日市チャペル礼拝

7/5-7 牧師 上京 

7/8  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/9  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

マタイ 10:2431 (18)

 説教        「全てをご存じの方」 マタイ1026-31

マタイを含む弟子たちの派遣は、他の弟子たちに緊張感を伴ったと思います。「マタイの弟子入り」の際、彼は主イエスと他の「罪びとや徴税人」を自宅に招きました。その様子をファリサイ派が「弟子たちに」咎めました。「徴税人マタイ」の立ち位置は、特に「熱心党」から見て「容認できない」と言えます。派遣されるマタイ自身の内心はどうか。複雑なものがあったと言えます。その出来事を踏まえ、遣わす弟子たちの心を主も感じたのでしょう。

 

日課は「恐れるな」で始まり、終わります。旧約で「恐れるな」とは「出陣(203)」等に添えられる神の言葉で、「安心せよ(623)」とも組にされます。弟子たちに、特にマタイに主は、何と戦うことを期待するのか。「昔の自分、今の自身」が鍵です。徴税人だった過去と、今。昔、徴税人だったことを知る人々と、弟子である今。後年のパウロ(迫害→伝道者)と重なります。昔は拭えないという事実に対して、主は「恐れるな」と言われるのです。

 

主は、2つのたとえ話をされます。少量、多量のたとえ話です。小さな雀でも、多くの髪の毛でも、神さまに知られていると主は断言します。「小さな雀」の「捧げもの」とは、二羽が奉献物としての最小単位だったようです。加えて、1デナリの1/16であるアサリオンとは、最小貨幣の一つです。「取るに足らない、小さなもの」と見られていても、神は支える。「多量の不安」でも主は支える。主はこの話を、おそらくはマタイを念頭に置いて語ったと思います。

 

第一朗読は、若年時に預言者として召されたエレミヤの嘆きです。嘆きつつ、エレミヤは「お任せします(2012)」と言います。不安で潰されそうになる日々、しかし主は「任せよう」という信仰を、先人エレミヤを通してマタイに語ります。主がかつて、マタイを見出し、語りかけた言葉は、私たちの今にも向けられています。「受け入れざるを得ない事実」と「向かい合うこと」をこの世の中で実感する私たちです。そこに注がれる愛を、受け入れたい。

 

 

2023年6月20日火曜日

6/17.18 柳井、徳山、防府、そして六日市メロン!

 

6/18 防府チャペルの礼拝堂でした。

珍しい形のユリが、元気に咲いています。

も一つ。長年の懸案だった記念堂の漏水が修繕されました。

ご奉仕に感謝です。


6/18 徳山チャペルです。初夏の礼拝で、初クーラーでした。


メロン! 見ただけで心意気を揚げる果物の筆頭でしょう。

六日市チャペルの方が送って下さいました。果たして、これらのメロンは

私の口に入るのか。それとも…5人の人々が食べてしまうのか。

毎年、益田の方も送って下さったことを思い出しています。

6/17 柳井チャペルの礼拝です。

アジサイが捧げられています。この時期の花ですね。

今週、来週の予定は以下の通りです。

6/20 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

6/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

6/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

6/27  火曜日 六日市チャペル礼拝 

7/1  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/2  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 マタイ 9:3510: (17)

 

 説教               「あなたを呼ぶ声」 

主が人々を「飼い主のいない羊(35)」と見ています。主の視線の原型は、旧約のエゼキエル34章、王上2217に見出せます。そこには、指導者が役割を果たさず、民が流浪し、混乱している状況が記されています。主が直視したのも、この状況でした。時の宗教指導者層に対し、主とマタイ福音書は後に強い表現を用いますが(23)、ここでの主は、責めることより、慰め。「羊たち」を顧みる視点を示します。それでは、どのような視点なのか。

 

主イエスは「町や村を残らず回」ります。「人の住まう」豊かな村、貧しい村。多い町、少ない町。そして「病める方々の村」。そこで「み国の福音(エウ アンゲリオン)」を教えました。福音とは、既に単語となっていますが、「良いことが訪れる」、「神の国の到来」でした。それは、金権的な勧めでも、二者択一な裁きでもありません。「神さまが、あなた方に近づく」との教えは、この時代は斬新なもの、「打ちひしがれる」人々に喜ばれたのです。まさに「福音」でした。

 

「深く憐れまれた(37)」とは、断腸の思いと訳しうる言葉です。そこで主イエスは、弟子たちを組にして(マルコ67)各所に遣わします。この弟子たちは、背景が特徴的です。漁師4名、大工、政治活動家。徴税人、会計士…。ここには「教え」だけではなく、現実的な支援、知恵の分かち合いもあったと察せます。明らかなのは、病癒しの権能(1)があることです。「悪霊への権能」については、「古代人の理解」と、一言で切り離せないのです。

 

病とは、旧約では神さまに背いた罰(出エジ9)として、新約でも(神の家来としての)悪霊の仕業(マタ424)と理解されていました。しかし主は、病と、神さまの怒りとを結びません。むしろ、病に心配、配慮をもって関わるご自身を通し、神さまを「愛の方」として再解釈します。対話を通して、神さまの怒りではなく、自己責任に帰すのでもなく、愛を告げたのです。「飼い主」であり、迷える羊を導く主イエスを覚えたい。賜物を各所で、用いたい。