2023年7月21日金曜日

7/13-14.15.16 美祢(於福)と防府

 

7/13-14と、水害のあった美祢市でボランティアをしてきました。

活動した小学校にあった銅像。「希望」という題名です。

学校裏山からの土砂は、小さな小学校の敷地を埋めていました。

それを、様々な団体の方々と片付けてきました。

7/16 防府チャペルの礼拝でした。

梅雨明け間近と思える、午後の強烈な日差しがありました。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

7/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/23  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

7/25 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

7/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/30 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

マタイ 13: 1 9&1823 (24)

 説教           「置かれた場所で咲けますか?」 

「種蒔きの話(1-9)」には、「解説(18-23)」があります。解説では「道路/石地/茨」に蒔かれた「もの()」が示唆されています。「種蒔きの話」では、蒔く人は神さま、蒔くのは「み言葉」。人はそれぞれ、み言葉を「置かれた様々な状況」で受け止める話です。この手は、コヘレト書「人生の時(2)」に類型を見られます。コヘレトは、生に起こる/起こり得ることを「神の定めた時」とします。マタイはコヘレト以上に、厳しい現実を描くのです。

 

聖書は、私たち自身や、知人、隣人の現実、いわゆる「茨の道」と呼ばれる道を歩まざるを得ない人を思わせます。主の時代はどうか。私たちが実感するように、「道路、石地、茨」の生があります。若くして命の危機があり、貧しい所に育ち、成長が種々の要因で阻害される現実。主はそれをまず、例えを通して語りかけたのです。「自分は、私は」という思いが、湖のほとりで聴く人々の心に響いたと思います。「その私が、神さまにどう映るのか」

 

当初は「神のみ手の種」が、あらゆる土地()に蒔かれます。しかし人は「突然の出来事()」に妨げられ、「力添えを無くす(石地)」で弱り、「見通しが立たない()」日々を迎えてしまうこともある、主は例えでそれを語ります。しかし主は、話をするだけではなく、関わります。福音書で「道路、石地、茨」に蒔かれたような人と出会い、その人らしさが得られるよう関わります。私たちにも、人や事柄を通して「私たちの根、本質」に神は関わるのです。

 

主の関りの中に生き、生かされる私たちです。本編の最後には、「倍増する種」があります。ここから、神が蒔いたみ言葉や、み言葉を聴く人を増やすとの、使徒たちの時代の伝道や宣教に結び付けられます。ただ、元来の主は「人々の心に寄り添う」。いわゆる収穫は一つの結果論です。主が私たちをどこに蒔き、今の私たちを妨げるものは何かそれぞれです。私たちの窮状を主はご存じで、共に留まります。そこに立ち、他者のため生きたい。

 

 

 

 

 

 

2023年7月12日水曜日

7/9.11 防府、六日市

7/9(日)防府の礼拝堂でした。

7/8(土)の16時頃(防府は15時頃)の雨の様子の激しさを伺い、

また過去の水害の経験を教会員の方から伺いました。


7/11(火)六日市の街中を流れる川です。遠くには消防署が見えます。

よく見ると、草がなぎ倒されています。

 

今週、来週の予定は以下の通りです。

7/13 木曜日 牧師 美祢市社会福祉協議会

 14 金曜日 牧師 美祢市社会福祉協議会 

7/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/16  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

7/18 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

7/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/23 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝 

  今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

マタイ 11:1619&2530 (20)

 説教               「重荷を負う人々へ」 

「笛吹けど、踊らず(17)」聖書由来のことわざの一つです。用意をしても、用いられないことです。主イエスはどのような脈絡で言われたのか。洗礼者ヨハネの逮捕(112)を踏まえた、主の感想の一つです。主の時代に、「原点回帰」を説き、実行したのが洗礼者ヨハネでした。彼は、律法の実行(神への愛)でなく、聖書の原点回帰として清貧と分かち合い(神からの愛)を説いたのです。舌鋒が鋭いヨハネは逮捕され、主はヨハネを回想します。

 

主は「広場で遊ぶ子たち(16)」を思い起こします。子たちは「ごっこ遊び」「結婚式/葬式ごっこ」をしていたのです。「会堂(集会所)」が町村の中心の時代、「会堂長」が司る結婚式/葬儀は、子たちにも馴染み深いものでした。「笛」は喜びの真似、「葬式の歌」とは悲しみの真似です。ただ、呼びかける子に対し、周囲が反応しなかったのです。主は、聖書に忠実であろうと生きたヨハネが、周囲に受容されず、自身とも重なると振り返ります。

 

主は、ヨハネが行った「断食」は「悪霊の仕業」、自身の「食事会」は「大酒飲み」と見なされていると言われます。敵対者が向ける「悪口」は、実は聖書を典拠としています。「偽預言者への極刑(申13章)」「大酒飲みへの極刑(21)」です。ヨハネも主も、原点回帰としての清貧、食卓の交わりを「神の愛の体現」として行ったのです。しかしヨハネは逮捕、自身の働きも理解されない、更に聖書を用いた悪口を言われる、というのが日課です。

 

しかし主は萎縮せず、「知恵の正しさは、働きが証明(19)」と言われます。聖書で知恵とは、神からの賜物の意味です。働き続けることで、神さまを証し続けるとの決意です。「笛吹けど、踊らず」の現状は変わりません。しかし主は、「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ(ローマ1215)」のため、人の笛(喜び)と哀歌(悲しみ)に寄り添います。その一つが後半、有名な「重荷を担う」というみ言葉です。この主に、私たちは自身を委ねたい。