2017年2月26日日曜日

2/26 献花と礼拝



本日の献花・・・先週の献花が一週間守られて、今週も飾られました。

本日も所要や病気でお休みの方が多かったのですが、それでも礼拝と愛さんが行われました。

今週はもう三月。ついこの間正月を迎えたばかりと思ったのに、早い時です。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/28(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/2(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 教団益田教会での「世界祈祷日礼拝」との合同

      19:30 六日市礼拝

3/5(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書171-9節】
聖書登場のモーセは旧約の偉人ですが、角を生やす造形の美術作品があるのです。ミケランジェロのモーセ像然りです。中世の聖書は、モーセが十戒受領後に角を生やす」と記すことを原因に、美術家が「角を生やす」作品を作ったのです。旧約ヘブライ語で角と光は同じ綴りのため誤訳、行き違いが発生したのです。私たちも輝かしい顔をしているか。角を生やすか。今日の聖書直前で、主に角突き合わせてつっかかる人物がいます。主の弟子、ペトロです。

主の受難予告を巡ってのことです。ペトロにとって主は栄光の人で、苦しみとは無縁であるべきでした。一方主は受難の心を示すために、特徴的な弟子三名を選び登山の伴とします。そこで主の顔が輝く。日本聖書協会は、主の顔に角は生やしません。主の神性に重きを置くペトロには夢のような光景でした。口を挟み、主をこのまま留めようとするのです。

「仮小屋を作りましょう」と言います。この小屋は、十戒を収納し、貴人を載せ、祖先の苦難と神護を覚える、これ以上はない尊い家屋です。だが主は、栄光の姿に留まるを望みません。山を降り、人の子として今後も生きる心を示されます。「山を降りる」とは主の今後を象徴する一語です。高所の栄光でなく、貴人でもなく、人と共に生きるのです。

雲の覆う時に声があります。主の受洗時とほぼ同じ言葉です。受洗時、主はヨハネに、自らの受洗根拠を「正しいこと」と宣言しました。人々と共に生きる決意を「正しい」としたのです。そしてここでも主は山を下り、共にある姿、生きる姿を示されます。来週から四旬節です。いよいよ主が十字架を見据えて生きるのです。主が共にあるのですから、それ故に私たちは「角を生やす」ような日々でも、その私と主が共にあることを覚えたい。
 

2017年2月19日日曜日

2/19 礼拝と献花


 本日の献花です。
明日、誕生日を迎える兄弟からのお花でした。

本日も徳山Cでは礼拝が行われ、その後愛さんが振る舞われました。
本日は多用の方が多かったのですが、少人数でも豊かなひと時でした。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/21(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/23(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/25(土)11:00 益田にて、教会員記念会

【マタイ福音書538-48節】
 「完全な者となれ」と主は最後に結びます。なぜ完全になるか、それは神が完全であるからと主は言われます。完全の基準とは何か。この場合は主断言の箇所、即ち「地の塩,世の光」への心です。自らが「地の塩、世の光」に固く立つ事が必要になってくるのです。今のそのままが塩であり光である、かつて聞いたその言葉には安心するのですが・・・。

 本日の聖書では完全になれ」とあります。それが出来ないならば、私たちは天の父の子ではなくなってしまうのでしょうか。「敵を愛する」この「愛」という言葉には、「神の愛」を表す言葉が使用されています。人間的な愛ではないのです。だから、仮に「私」が憎み続けても、神さまは私の憎悪の対象を愛する、との主の言葉です。根拠があります。

 それは主の話の構成です。主は愛敵を告げ、その直後に神の愛を語る。神は善悪問わずに雨を降らせると言います。主は人の憎しみが容易に溶けないことを知っています。だから愛敵とは、自分自身に無理を強いる愛でないのです。神さまが全てに恵むことを知るのです。ではなぜ誤解を与える「愛敵」と語るのでしょうか。主は神の愛を受けた人にチャレンジをするのです。「神は善悪を問わず愛するのだが、あなたはどうするか」と。答えは無関心でも呪いでも良い。せめて,神の愛を受けた者として祈りは出来ないものでしょうか。

 私たちの目指す完全とは、不完全な私を神さまが愛するという恵みに立つことです。そこに始まり、そこに尽きるのです。私たちは、敵を愛するなどともっての他、神がその人を愛するという事実からも目を背ける者です。むしろ「復讐は神のなさる事」と言うみ言葉に心を寄せる。それで良いのです。十字架の主は敵を愛し、害するものを祈る。この事実を覚えたい。神さまの愛の事実は不変です。不完全なままで、神さまは私を招くのです。


2/26(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。

2017年2月12日日曜日

2/12 献花と礼拝


本日の献花です。水仙が特に来たりつつある春を思わせてくれます。

徳山は時折雪がちらついていますが、今は晴れています。

本日も礼拝が行われ、その後愛さんが行われました。

記録的な大雪の中で、豪雪地帯六日市から来られた兄弟姉妹に感銘を受けました。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/14(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/16(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/19(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書521-26節】
聖書の前半は、「自身が誰かに腹を立てる場合」の、後半は「誰かが自身に腹を立てている場合」の主の勧めです。主の結論は、前半に関しては「腹を立ててはいけない」、後半は「早く和解しなさい」です。さて、聖書を読む際に肝心なのは、自身を棚に上げないことです。しかしあえて自身を棚に上げて考えれば、この聖書が良く分かって来るのです。棚に上げて考える内容は、「このように言われる主イエスはどうだったか」です。

マルコ35、マタイ11201913などを見ると、あれと思います。主も怒り、憤り、叱るのです。理不尽にも怒られます。主の立腹は、み言葉を聞かない人々、ご自分の思いとは違うことをする弟子たちへのものですが、その怒りは良いのか。或いは、主はファリサイ派や学者たちから怒りの眼差しを集めましたが、主は十字架に付けられる前に和解したか。自分自身を棚に上げて考えると、そのような主の姿が聖書を通して私たちの目に飛び込んで来ます。

怒りや憤りには理由があります。主と私たちの怒りの違いは、「自分の怒りに責任を持てるか」否かです。私たちの怒りとは、炎が収まっても煙で相手を燻し続けます。人からの怒りも、放っておくことが多いでしょうか。けれど主は、弟子たちや人々を怒っても、赦した。また律法学者から「裁判」で訴えられ、最終的に、ゴルゴタで十字架に架けられた。主は自身の怒りと結果を受容された。私たちとの違いです。

「腹を立ててはならない」「すぐに和解せよ」不可能であることは、自分を棚に上げ、主の姿を見ることで分かります。自分を棚に上げて、主の姿を見ることが大事なのです。私たちには、怒りの結果を受容することも出来ません。それで良いことを知りましょう。出来れば、自身の憤りをも祈りとしましょう。そこから赦しが始まってくるのです。