2017年2月19日日曜日

2/19 礼拝と献花


 本日の献花です。
明日、誕生日を迎える兄弟からのお花でした。

本日も徳山Cでは礼拝が行われ、その後愛さんが振る舞われました。
本日は多用の方が多かったのですが、少人数でも豊かなひと時でした。

今週の予定は以下の通りとなっています。

2/21(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

2/23(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町教会礼拝

      19:30 六日市礼拝

2/25(土)11:00 益田にて、教会員記念会

【マタイ福音書538-48節】
 「完全な者となれ」と主は最後に結びます。なぜ完全になるか、それは神が完全であるからと主は言われます。完全の基準とは何か。この場合は主断言の箇所、即ち「地の塩,世の光」への心です。自らが「地の塩、世の光」に固く立つ事が必要になってくるのです。今のそのままが塩であり光である、かつて聞いたその言葉には安心するのですが・・・。

 本日の聖書では完全になれ」とあります。それが出来ないならば、私たちは天の父の子ではなくなってしまうのでしょうか。「敵を愛する」この「愛」という言葉には、「神の愛」を表す言葉が使用されています。人間的な愛ではないのです。だから、仮に「私」が憎み続けても、神さまは私の憎悪の対象を愛する、との主の言葉です。根拠があります。

 それは主の話の構成です。主は愛敵を告げ、その直後に神の愛を語る。神は善悪問わずに雨を降らせると言います。主は人の憎しみが容易に溶けないことを知っています。だから愛敵とは、自分自身に無理を強いる愛でないのです。神さまが全てに恵むことを知るのです。ではなぜ誤解を与える「愛敵」と語るのでしょうか。主は神の愛を受けた人にチャレンジをするのです。「神は善悪を問わず愛するのだが、あなたはどうするか」と。答えは無関心でも呪いでも良い。せめて,神の愛を受けた者として祈りは出来ないものでしょうか。

 私たちの目指す完全とは、不完全な私を神さまが愛するという恵みに立つことです。そこに始まり、そこに尽きるのです。私たちは、敵を愛するなどともっての他、神がその人を愛するという事実からも目を背ける者です。むしろ「復讐は神のなさる事」と言うみ言葉に心を寄せる。それで良いのです。十字架の主は敵を愛し、害するものを祈る。この事実を覚えたい。神さまの愛の事実は不変です。不完全なままで、神さまは私を招くのです。


2/26(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。