2019年10月23日水曜日

10/19.20.23 礼拝と献花

 10/19(土)柳井Cの礼拝堂でした。
  聖壇には、会員ご息女手製の「タペストリー」が置かれました。
  10/20(日)徳山Cの礼拝堂です。
10/20(日)午後の防府C礼拝堂です。
こちらもオルガンのイスに、会員手製のクッションが置かれました。
クリスマスカラーとなっています。

今週、来週の予定は下記の通りです。

10/25 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
10/26 土曜日 15時 柳井C礼拝

10/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
10/30 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 181-9
 祈りは呼吸と似ています。呼吸において私たちは、酸素を吸い二酸化炭素を吐きます。それと同様、祈りにおいて私たちは、神さまからの力を頂き私たちの思いを出すのです。祈りとは私たちの自発的行為と思われますが、まず力を頂いて初めて祈りが出るのです。そこまでの祈りに至らないことがある。主が言われたのは「気を落とさずに絶えず祈る(1)」勧めでした。つまり、主は「気落ちしてしまう」人間の現実に立って話されます。

祈りとは神さまの導きの中で行われるものです。それは時に私たちの「言葉」となり、時には「うめき」「叫び」となるのです。祈ることができない、祈りに心が至らない、そんな時に信仰者としての自身を責める必要はまったく無いのです。「聖霊が、言葉にならないうめきを執り成して下さる(ローマ8)」とある通りです。そして今日の例え話も大切です。しかし何という話か。当時の「職務規程違反」を自らに認める裁判官が登場です。

主のたとえ話から、「生の現実」を聴くことが出来ます。「規定では保護される寡婦」しかし「現実では困りごとを抱える寡婦」。「規定では神と人を愛する裁判官」しかし「現実には不遜な裁判官」。寡婦の願いを当初は聞き上げない裁判官も、最後には「拝み倒されて」聞き入れるのです。そこで「熱心に、熱意をもって祈り続けるという勧め」が為されます。確かに分かるのですが、現実には「祈り、祈り続ける困難さ」に立ちすくむのです。

人の常として、祈ったその後、結果が気になるのです。ことに「息があえき、息も付けない」現実の中でこそ「祈り続けましょう」という題目は無責任にも届きます。その私たちに、最後の8節は大切です。「人の子が来た時に信仰を見出すか」と。私たちの信仰は「見出されないほど小さなもの」かなと気落ちする必要はありません。以前主が言われた「辛子種の信仰」を通して働く神さまのみ働きに信頼したい。実生活はもとより、祈りにおいても気落ちすることはあるのです。神さまのみ前に沈黙し、うめく。これも祈りです。
 

2019年10月9日水曜日

10/5.6.9 礼拝と敷地内

 10/9 朝の礼拝堂写真です。徳山Cのものです。

こちらは10/6の防府C。敷地内の草が整備されました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

10/11 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
10/12 土曜日 15時 柳井C礼拝

10/13 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝
 
10/16 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 171-10
 「つまずき」の原語は英語で「スキャンダル」です。「政治・芸能」界の人々には「避けられない」ものかもしれません。主はこれを元来「弟子たち」に語ったことから、私たちに向けられた言葉とも読めます。「私たちが誰かをつまずかせる」「私たちが誰かにつまずかせられる」二つの意味を受け取ることが出来ます。誰もが順調な歩みを企図しますが、それは時に崩されてしまう。それをどう受け止めるか、という「信仰者の生き方」を語ります。

 2-4節では「他者をつまずかせる者」「赦し」への厳しさが際立ちます。他者をつまずかせることへの「禁止」そして、「何度でも赦す」。「他者をつまずかせてしまうことは避けられない(1)」と言われつつも、「つまずかせないようにしよう(2)」「赦し(3-4)」と、人間の現実の姿と実行不可能な教えが織りなされている箇所でしょう。み言葉にある「さぁ、頑張って赦しましょう」「つまずかせないようにしましょう」と言うことは容易いのですが…。

 弟子たちも余りに高いハードルと考えた。主の姿との対比で、「赦せない」「つまずかせる」のは「信仰が少ない」と思い「信仰を増して下さい(5-6)」と頼んだのでしょう。しかし主は「信仰の多寡」でなく「有無」を言われるのです。信仰が小さくともあれば、「桑の木が海に根を張る」と言う、あり得ないことが起きると言います。信仰とは私の力でなく、私を通して神が働かれるということ。「桑の木」は未知なれど、神の御業は散見出来ます。

 他者をつまずかせることもある「小さな」者たちを通しても、神さまは働かれるのです。確かに主は冒頭で「つまずき」をお話になりました。しかし「避けられない」現実を抱える弟子たちに、無闇な禁止でなく、それを用い、通して働かれる神のみ姿を添えたというのです。つまずかせられる時、主は立ち上がるために助けて下さるし、そのつまずきを通しても良い方向に導かれます。復讐や怒りを委ね、「誘惑に遭わせず、悪から遠ざけて」と祈りつつ、「しなければならないことをしただけです」と、日常を送る幸いを感謝したい。

 

2019年10月3日木曜日

9/26.27 礼拝 と台風

  9/22に山陰沖を通った台風は山口県にも被害をもたらしました。
  柳井教会の屋根が一部破損。
  台風被害ですので、保険で対応しようと計画中です。
こちらは防府の礼拝堂。

 会議準備や出張などで、更新が随分と滞りました。 


今週、来週の予定は下記の通りです。

10/4 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
10/5 土曜日 15時 柳井C礼拝

10/6 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝
 
10/9 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 1619-31
 「(さまざまな)格差ゆえの苦しみ」「病からの不安」「自己責任論」…。どれを取っても一言で語りつくせず、また現実に私たちが祈りつつ、嘆きつつ、その一つひとつを引き受け、覚えている事柄かと思います。聖書という書物は、主のお言葉と行いを通して上記の個々の出来事に明確に答えています。ところが今日の聖書の流れの中で、「因果応報」「自己責任」とも取られる話が為されています。ここから私たちは何を汲めば良いのか。

 結論から言えば、この個所は「金に執着するファリサイ派(1614)」に続く教え、主が語る対象は「ファリサイ(分離、区別)派」ということを踏まえたい。話は金持ちの豪遊から始まります。紫の衣や柔らかい麻の布(19)は、言うまでもなく富者の象徴。この金持ちの門前にラザロが「横たわる(20)」。「置かれていた」のです。誰かがラザロをここに置き、金持ちもそれを赦す。この金持ちは少なくともラザロを見知って(24)いたのです。

 ラザロも金持ちも死に、場面は天の宴席と陰府へと移行します。宴席に連なるラザロを見た陰府の金持ちは、助けを求めます。「お前は良いものを貰っていたから、もだえ苦しむ(25)」。生前とは逆の立ち位置になることが告げられ、「そればかりか(26)」→「それ以上に」大きな淵について言われるのです。金持ちもそして聞き手であるファリサイ派の人々が置いていた「淵」は越えられないと言われます。今、ファリサイ派が築いている「他者との淵」「徴税人/罪人との淵」をこそ、主が問題と見做しているという話なのです。

 「今、み言葉に耳を傾けよ(31)」「今、旧(ふる)くからの言葉に耳を傾けよ(29)」それを主は、厳しい形で伝えるのです。そして一方で主は、何も持たずに病みつつ嘆く人に「ラザロ(神が助けて下さる)」と名付ける。この名付け方一つとっても、主のお気持ちを汲むことが出来るのです。巷には変わらず「自己責任」が満ち、生きる私たちには苦しみ悩みは尽きません。かつてと今のその人々を主は「ラザロ」と呼ぶ。あなたもラザロなのです。