2021年4月27日火曜日

4/24.25 教会敷地のさくらんぼ

 

 4/25 防府礼拝の前に撮ったさくらんぼの木。

 教会の裏手にあります。おすそわけを頂きました。

 4/24 徳山の敷地内のさくらんぼの木。

 鳥よりも早く摘んでいる人々がいます。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
4/28  水曜日 19時 六日市C礼拝 

5/1 土曜日 15時 柳井C礼拝  

5/2 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 ヨハネによる福音書 101118 (新共同訳聖書、新約186ページ)

 説教              「囲われる羊、囲う神」

 聖書の中には、様々な職業が登場いたします。「羊飼い」は、牧畜文化にあった聖書時代に、なじみ深い職種でした。羊飼いたちにとって羊たちが「無事に成長」することは喜ばしく、一方で労働環境は「昼は猛暑、夜は極寒(いずれも創世記31)」でした。ルカ福音2章の羊飼いたちも「夜通し」の働きに就いていました。羊飼いとはそういう環境で、羊たちを守るものでした。主イエスは今日、ご自身を「良い羊飼い」として話し始められるのです。

 

 今日の話は、直前の9章「盲人の癒し」が前提になります。安息日に、ある盲人が主に癒されました。当時の宗教者は、「安息日に主が働いた」ことを問題視し、この人を「取り込み」、主を貶める発言を引き出そうとします。ところがこの人が拒むと一転、「町から追い出す」のです。「羊飼い」であった宗教者はしかし、自己都合の中で羊(「登場する盲人」)を振り回します。一連のこの出来事をご覧になった主は、「真の羊飼い」の話をなさいます。

 

 16節から主は、「囲いの外の羊」にも言及されます。これは何か。「群れを離れざるを得ない」「迷う」「傷ついて戻れない」「囲いを越えられない」等と理解できます。これらの人々は皆、当時の宗教者が(結果的に)作り出し、主が引き受けられた方々でした。主がその「囲いの外」をも導くことに信頼をしたい。今、礼拝に集う私たちは「囲いの外の人々」を覚えています。主の愛の眼差しは、囲いの外にいる「私たちや近しい者」にも向かうのです。

 

 今日の聖書で主は「羊のために命を捨てる(11.15.17.18)」と、何度も明言されます。事実、宗教者から排斥された人々と関わることは、主のお立場を危うくさせるものでした。しかし羊飼いが厳しい環境「猛暑、極寒」を厭わなかったように、主はご自身への厳しい眼差しを受止め、やがて十字架へと赴かれるのです。生も労動も「苦楽」を伴います。その渦中に生きる私たち、時に耐えざるを得ないとき、そこにも主イエスが共におられます。

 

 


 

2021年4月20日火曜日

4/17.18 礼拝堂と外の牡丹

 

 4/18(日)の防府チャペルとなります。

 聖壇の色は白、併せて献花も白百合となりました。

 4/17(土)の柳井チャペル、外には白牡丹が咲いていました。

 会員が島根県の大根島(植木、牡丹で有名)で求めたものです。

 庭で今年も咲きました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
4/21  水曜日 19時 六日市C礼拝 

4/24 土曜日 15時 柳井C礼拝  

4/25 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 ルカによる福音書 2436b~48 (新共同訳聖書、新約161ページ)

 説教              「キリストが留まる場所」

 最古の福音書、マルコで主は弟子たちに「(故郷)ガリラヤへ行け」と伝えるよう語ります。受け継ぐように、マタイとヨハネは主と弟子たちとの「ガリラヤでの出会い」をも語ります。ところがルカ福音書は、出会いの場をエルサレムおよび近隣と限定。主は復活から40日間エルサレムに、弟子たちも「聖霊降臨」までは同市内に留まるのです。ルカ福音書は、「エルサレム」に思いを寄せる主の姿を通し、私たちへの励ましを語るのです。

 

 本文の直前、「エマオの途上」で主に出会った二人を通し、弟子たちは「平安」を得ていました。エルサレムに戻ると再度主が現れますが、弟子たちは「亡霊(37)」と見なします。主が「実体」を示すと(40.42)、弟子たちは安心します。続けて主は、ご自身についての聖書の言葉が実現すると語られます。「聖書への信頼」が、主が強調することです。なぜ「聖書」か。主は、信仰の拠点だった神殿がやがて崩壊することをご存じだったのでしょう。

 

 「信仰は建物での祭儀(いけにえ)を通してではなく、聖書のみ言葉を通して導かれる」ことが主イエスの導き出したことでした。示された場所はエルサレム。そこは、弟子たちには危険な場所で、後代は戦乱による廃墟。主は、安全地帯ではなくその場所から、み言葉を語るのです。詩編が語るように「苦難のとき、そこに居ます(詩編462)」方なのです。「地に平和(ルカ2章)」をもたらすため、「苦難」の渦中にあって、そこに居られるのです。

 

 ところで、「主についての(44)」旧約諸書の一つは、「イザヤ書」の「苦難の僕(イザヤ53、旧p1149)」。地上の生活で「病み、痛む」ものを、神さまの僕が共に担うという預言です。地上の生における苦難の一つには、「病み、痛む」要因が潜むものでしょう。しかし、この日の聖書が強調することは、危険が予見される場所に主や神なる方の力が共にあることです。困難な場にも「主がおられる」だからそこが私たちの「平和の場所」なのです。

2021年4月6日火曜日

4/3.4 イースター礼拝

 

 4/4 徳山でもイースター礼拝が行われました。

 前日の4/3には柳井でもイースター礼拝。

 4/4午後には、防府でもイースター礼拝が行われました。久しぶりの二けた。

 4/7には六日市でも礼拝が行われます。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
4/7  水曜日 19時 六日市C礼拝 

4/10 土曜日 15時 柳井C礼拝 イースター 

4/11 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 

        防府C礼拝は、家庭礼拝となります。
  
牧師は三原教会に出張することになります。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書 1618 (新共同訳聖書、新約97ページ)

 説教              「お墓の中にはいません」

お墓とは、不思議な場所です。瞑目すると懐かしい者が、心の中に自ずと過ぎるからです。主イエスは、金曜の午後三時ごろ最期を迎えられました。間近に迫る日没からは、一切の労働が禁止された安息日でした。主イエスのお体を安息日明けまで、外に一日放置しておけば、自然と損なわれるのは必定でした。それを避けるために、「勇気を出した」アリマタヤ地方のヨセフ議員が、主の体を自分用のお墓に葬った。「人事を尽くす」のです。

 

二人のマリアとサロメは、墓所を確認していました。墓参に際し、安息日明けの商店から香油を買い求めます。ものにも依りますが、年収相当の香油もあったとか。女性たちも、ヨセフと同様に自分のものを主イエスのため出すのです。主から受け、聞いた「神さまの愛」に、少しでも報いたい思いです。ただし、ヨセフも女性たちも、主の復活を期待していません。ヨセフは死んだ主を葬り、女性たちは主の遺体を少しでも保つ努力をしたのです。

 

生と死の間の越えられない壁が「石(3)」に示唆されています。当時の墓は、「陰府」を示唆していました。石で封印を施されれば、それは「永続的に続く闇」の象徴です。しかし主は、当時の墓の象徴を壊されました。永遠の闇に、突如として光が差し込む。主はその光の中を歩まれ、ガリラヤへと赴かれたのです。女性たちが尋ねたのは万事が終わった後でした。墓の中の若者に指示されますが、女性たちは度肝を抜かれ、逃げ出すのです。

 

「誰にも何も言わなかった(8)」のが、世界で初めのイースターでした。妙に、人間臭い出来事です。ここには、主のみ言葉に聞き従った「信仰深い」人の姿はありません。「復活信仰」のみ言葉以上に、目前の恐れ、不安、心配事に心を満たす人々が、何か安心させます。ただこの人々も、生前の主を思い出しつつ、「人事を尽くす」姿を示したことは、一つの手がかりでしょう。大きな局面に立つとき、復活の主のみ言葉に養われつつ、生きたい。