2023年3月30日木曜日

3/25柳井、3/26防府、3/29益田

3/25(土)柳井礼拝所です。

四旬節もそろそろ終わりに。

3/26(日)防府礼拝所です。

納骨堂の周囲には水仙が。一足早く、復活の香りを。

3/30(水)益田礼拝所です。

右には、懐かしい方のお写真が。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。 

 

4/5 水曜日 18時 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝 

4/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 ※イースター

4/9 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝 ※イースター     

       15時30分 防府チャペル礼拝 ※イースター

4/12 水曜日 18時30分 六日市チャペル礼拝 ※イースター

4/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/16 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

ヨハネ 11:1-429-37 (188)

 説教                    「生きよ」 

 「神の沈黙」は、古くはヨブが問いました。「あなたはお答えにならない(ヨブ3020)」と、ヨブは神の無言に激怒しています。新約聖書では、今日のマルタとマリアが、主の行動に疑義を呈しています。性格が異なる両者でしたが、兄弟ラザロの死に際して「主よ、もしここに居て下さいましたら(21.32)」と、同じ責め句を主に向けるのです。なぜ主はあえて遅延したのか、すぐに来られないか。「復活する」と即答された主の思いを聞きたいのです。

 

まず「遅延」は15節、弟子たちの信仰を育てるためとあります。二人のマリアたちも含まれるのでしょう。しかし弟子たちもマリアたちも、主の意図が分からず、「沈黙している」とするのです。全ての事には意味がありますが、過程を歩むときには分かりません。「死」とは、残された者に何をもたらすのか。心には悲しみを、生活には不確かさを、日常を変え、穏やかな日々を奪うものと言えます。そういう死がラザロに訪れ、そこに主が現れます。

 

 多くの人がラザロを弔問しています。葬儀時には人も、為すべきことも多く、気が紛れるのです。ただ、その中でマルタ、マリアは決定的な疑問「どうして、遅くなったのですか」と問います。その問いに、主は個別に対応します。マルタには「復活する(23)」と言いますが、マルタは、当時としては革新の返事をします。「それは存じています(24)」と。陰府の理解を覆す返答に、主はマルタが「信仰的な育ち」の過程を既に経ていると了解するのです。

 

 マルタは「成熟した信仰者」として書かれる一方で、マリアは涙の中で言葉を発するのが精一杯です(32)。主の応対はこの場合、復活を先取りしマリアに示すのです(43)。その過程で起きたことは、人に悲しみをもたらす死に憤り、涙を主も流し、ラザロ「生きよ」と言われたことです。「マルタとマリア」は、一人の人間の信仰に、同居するものでしょう。双方になり得ます。神の沈黙を思う時、あきらめず、問い、祈り続けたい。希望を生みます。

 


 

 

 

 

 

2023年3月20日月曜日

3/16安浦、西条 3/18柳井 3/19徳山、防府

 

3/20(月)朝の徳山礼拝所です。

朝の光が記念堂に当たっています。

3/19(日)防府礼拝所、水仙が春の香りをはなっていました。
3/18(土)柳井礼拝所、四旬節の礼拝に、3名の子どもが集いました。

イースターには洗礼式が行われます。

3/16(木)所用で、西条教会(東広島市)に向かいました。
3/16(木)その日の午前中、2018年7月豪雨(西日本豪雨)の被災地の一つ、

呉市安浦町に寄りました。

山頂からの土砂流出は、5年経ってもその光景を留めています。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

3/21 火曜日 牧師 兵庫県出張 

3/22 水曜日 18時 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝 

3/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/26 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/29 水曜日 13時 牧師 益田市出張

       18時30分 六日市チャペル礼拝

4/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/2 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

ヨハネ 9: 112(184)

 説教            「開いた目で見えた神の愛」 

盲人に「盲目は、本人の罪か、親の罪か(1)」と言う感性の源は何か。申命記28:28の考え方が、背景にあります(神の罰)。古代人の思考には、時代の制約があります。一方で申命記(B.C640)の成立背景には、アッシリア捕囚(B.C740)を聞いた編集者の「み言葉に聞け、過去は…」の切実さもあります。これも時代の制約ですし、神罰的な考え方は肯定できません。むしろ聖書の主イエスの、時代を越えた画期的なお言葉に注目です。

 

「神の業がこの人に現れるためである(3)」神さまは、この人を通し、働くという意味です。バビロン捕囚(B.C597)により更に強固にされた「神の罰」との申命記理解を超え、「神の為さることに信頼せよ」とのヨブ記理解の発展形です。「因果応報」とは、旧約聖書の場合、善悪の行為に原因を求め、神が結果を給うという思想です。主は、その思想が強い時代の中で「遣わした方の業(5)」を世に居る間、行うと言われます。「夜」が来る前に。

 

 「誰も働くことが出来ない夜が来る」とは、何か。主が十字架に架けられた直後かと思えます。全ての希望が失われ、絶望のみがある時。その十字架は、ヨハネ福音書の場合、この「盲人の癒し」が契機でもありました。癒された盲人は、ファリサイ派に「誰が安息日に癒したのか」と、主の名を言わせようとします。盲人は答えませんでしたが、彼らはそのために、盲人を追放刑に処します。「共同体への復帰」を促す、本来の働きを逸しています。

 

 盲人は、癒され、目が開けたのに、共同体に復帰できません。「自分の罪か、親の罪か、神の呪いか」との悩みの時から、「神の愛」である希望が見えたと思ったら、絶望。癒されたことを原因とし、共同体追放という結果を招くのです。主は、その因果応報の現実に「共にある」ことを通して介入します。「応報思想」が行きつく先は、個々人の痛みです。希望が失われた時、主は共に立ち上がる方です。そのことが、「神の業」として示されたのです。