2023年2月28日火曜日

2/25 26 防府の梅と柳井の献花

 

 2/26(日)防府の礼拝堂です。

 梅が週ごとに開いていきます。

 2/19(日)防府の礼拝堂、まだこちらは咲が柔らかいものでした。
 2/18(土)柳井の礼拝堂。この日は変容主日の礼拝でした。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

3/1 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

3/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/5 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/8 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

3/9 木曜日 牧師 兵庫県出張 

3/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/12 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 説教               「アダムの失敗」 

 「創世記」の冒頭の意図は何か。「人間の不十分さ」を述べるものです。執筆時の王族たちの奔放さへの警鐘とも言えます。第一朗読でアダムは「木の実を食べ(6:食の欲求)」、女(イブ)は蛇に「死なない(4:命の欲求)」「賢くなる(6:力の欲求)」と唆され、誘惑に負けてしまいます。福音書は、主が荒野で誘惑に遭う所です。第一朗読と福音書の意図は、「誘惑」が人の生涯の中で、満たされている時でも、困難な時にも訪れることです。

 

「荒野の誘惑」は、「主の洗礼」に続きます。「誘惑」も、あえて主が受けたと言えます。しかし、記者たちが主の公生涯の冒頭に書く意図を、つまり「退ける決意」と「傍にある主」も覚えたいのです。さて、アダムたちへの誘惑と、主への誘惑は、食と不死、力の三点が重なります。聖書に登場する「蛇/悪魔」は、もとは神さまの家来です。その悪魔は、「人が心に欲するものに働く」のです。無意識な心の欲求を、彼らは実に巧妙に見抜き、働くのです。

 

「悪魔」は主を「空腹だろう、不死の肉体が欲しいだろう、権力が必要だろう」と想定します。一つ目は明確に、主が「空腹を覚えられた(1)」と記されます。後の二つは「神の国の接近(31)」という伝道活動には、宣伝となります。主が、不死と権力を仮に行使するなら、伝道完成は間近でしょう。しかし主は、誘惑をみ言葉で退けます。要注意ですが、これは主にのみ可能です。私たちは、果たして誘惑の中で、み言葉を想起出来るものなのか。

 

神さまは、私たちの「誘惑を退ける」決意、「試みに遭わせず」との主の祈りを聞かれています。それでも、私たちは弱く、大丈夫でなく、失敗を繰り返します。「アダムの失敗」を挽回した主は、私たちの失敗も引き受けます。大切なことは、失敗したと思える地点から生きること、その私たちに主が力添えをして下さることです。今年の四旬節は、礼拝の中で福音書を通して「主との出会い」が語られます。私たちも、週ごとに、赦しの主と出会いたい。





2023年2月14日火曜日

2/11.12 防府の梅と徳山

 

2/12(日)防府礼拝所に、紅梅が連なり始めました。

こういう時期の梅は、良いものです。

2/12(日)徳山礼拝所の献花です。

紫の花が飾られています。季節もそろそろ、紫色の典礼色の時期です。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

2/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝 

2/16 木曜日 15時 牧師 大阪出張

2/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/19 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/20 月曜日~2/21 火曜日 牧師 東京出張

2/22 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝

2/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/26 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

  マタイ 5:2126 (7)

21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と

命じられている。

22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を

立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ

込まれる。

23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 説教            「十戒に 挑んだ 牧師」 

 「聖書」とは、同じ信仰の人々に向けた、「神の言葉」とされるものの集合体です。今日の聖書は、主イエスによる「律法の解説」の箇所です。主は「あなた方も聞いている通り…」から、十戒第4条「殺してはならない」を引用し、「しかし、私は…」と解説します。この「殺すな」に関し、旧約「ユダヤ族」は一応の秩序が保たれている…ことも…あります。しかし「異民族」には凄惨な出来事が「神の名のもと」起こされ、惨禍と呼べる出来事が起きるのです。

 

 古くはアブラハム、ヨシュアのカナン移住(12:5、ヨシ6:21)が、神の名のもとで行われました。新しくはヒトラー。彼はユダヤ人への偏見を煽り、当時のドイツのルーテル教会も「圧力」で「協力」。ヒトラーの命令の、非人道的行為の中、牧師ボンフェファーが「ヒトラー暗殺計画」に着手します。愛のため、キリストに倣い、汚名を引き受け、自らが手を汚す決意をします。結果は事前露見し、処刑されましたが、「殺すな」の掟を、考えさせられます。

 

 「十戒」は「殺すな」と教えます。確かに主の時代の律法学者たちは、殺人は犯していなかったでしょう。しかし律法の用法を通し、「魂の殺人」は犯していなかったか。少なくとも主は、山上の説教の直前で、社会にその居場所を喪失する人々と出会います。主は、殺人と言う「結果」ではなく、そこに至る思想や心の動向を問題にしたのです。即ち、悪意こそが殺人と。巷に溢れていますし、また私たち自身も折に触れて、恐らく、同罪なのです。

 

 20節の「自らの和解」に踏み出せず、他者からの和解を望むのでしょう。主ご自身の言葉に、戸惑いしか感じません。そこに、対話によって気付かされた主のユーモアがあります。「ばか(22)」と「愚か者(22)」どちらが「悪口の程度」として酷いか、という質問です。説明は「前者は一時の感情表現、後者は神の名を用いた裁き」で、酷い方は後者です。感情には左右されますが、「神さまの赦し」を強く祈り、世の中に向かいたいと思います。