2020年12月22日火曜日

12/19.20 礼拝と礼拝堂

 

こちらは、12/20(日)の防府の礼拝堂です。

クリスマス礼拝でしたが、暦上はまだ紫にしています。

こちらは、12/20(日)の徳山の礼拝堂です。

「白」の天布が、ストーブの熱気で踊っていました。

12/19(土)の柳井の礼拝堂です。

今週、来週の予定は下記の通りです。
   
12/23  水曜日 19時 六日市C礼拝

12/24 木曜日 6時 祈祷会
        12時 祈祷会
         18時 クリスマス・イブ礼拝
12/25 金曜日 6時 祈祷会
         14時 聖書を学ぶ会
 
12/26 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 ルカによる福音書 12638 (新共同訳聖書、新約100ページ)

 説教              「あるがまま、の歩み」

「イエスの母マリア」の聖書の物語からひらめきを得た歌曲は、多くが残されています。ルーテル教会で言えばバッハの曲。20世紀で言えばビートルズ、「Let it be」という曲がそれです。マリアの「お言葉通り、この身になりますように(38)」との信仰の言葉が、日本語で「あるがまま、そのまま」、英語では「Let it be」と訳されています。では、マリアの唇からこの言葉が生まれ出た背景とは何だったのか。神さまによる、2つの助けを聞きましょう。

 

6か月目(26)」とは、親せきであるエリサベトへの受胎告知から数えてとの意味です。唐突な表現ですが、これはエリサベトとマリアのきずなを思い起こさせるものです。この世の身分も年齢も違いましたが、ここに「一つ目の助け」を見出すことができるのです。神さまは、人を通してその導き、働きを行うことです。結論を急がず、「6か月目」に起きたのは何か。マリアへの受胎告知、これはマリアにとって「おめで(28)」たくない出来事でした。

 

最悪の事態は、石による衆人からの裁き(ヨハネ8)でした。ごく、楽観的に考えても未婚の14歳の母としてナザレ以外で生きる。それが天使(ご託宣、み言葉)の語る事による未来予想でした。「なぜ、どうして私が」という疑問符は29節「戸惑う」、34節「どうして?」で繰り返されています。ただ、マリアに対し天使は誠実に答えています。「戸惑い」には「神の子があなたを守る(33)」、「どうして」には「エリサベトの妊娠(36)」が答えなのです。

 

天使の言葉で、マリアは自身も「神さまの守り」の中に居ることを確信した。また「エリサベトの妊娠」で、マリアには彼女の所に行く思いが備えられた。妊娠初期にも、後期と出産の以後にも「事柄」に伴う移動によって、彼女は衆目から守られたのです。マリアを守り、導く神さまのみ手があるから、マリアは「あるがまま、そのまま」と語ったのです。神さまは、様々に私たちの「道を整え」られる方です。その確信の中で「あるがまま」に生きたい。

 
 

2020年12月15日火曜日

12/12.13 徳山の町と礼拝堂

 

 12/15(火)先ほど撮影した徳山の礼拝堂となります。

 例年の「紫」に加えて「白」を加えて頂きました。

 アドベント(紫)から降誕(白)に向かいつつあります。

12/13(日)の夜撮影した徳山の駅前通り。
上記、こちらは郵便局側となります。

徳山の町は、駅前通りのイルミネーションに力を入れています。

今週、来週の予定は下記の通りです。
 
12/15 火曜日 9時半 女性会打合せ
        14時 牧師出張
 
12/16  水曜日 19時 六日市C礼拝

12/18 金曜日 14時 聖書を学ぶ会
 
12/19 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/20 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 ヨハネによる福音書 16-819-28 (新約聖書163ページ)

 

 説教                 「深みを増す闇の中で」

キリスト教系の施設で「ベタニア」をその名称に入れている法人はいくつもあります。聖書の「ベタニア」は直訳で「貧しく、病む者の家」という意味です。今も昔も、それぞれの人生の出来事の中で、支え合いながら生きる人々の共同体を意味する名称です。この名の村は聖書で少なくとも2か所、確認されています。一か所目はエルサレム近郊のベタニア(ヨハネ11)、もう一つは日課に登場の「ヨルダン川沿いのベタニア(28)」となります。

 

現在は観光地となっている「川沿いのベタニア」は、地図では死海への河口付近となります。今の言葉で言うならば「地表で一番低い位置の村」そこにヨハネが登場します。その目的は「主イエスを証しすること(6-8)」でした。「証し」の内容は、「罪の赦しとしての洗礼を授けること」でした。後年主イエスは、「いかなる“罪人”も、神さまは無償で目を注ぎ、愛する」と伝えましたが、その主の思いを先立ってを紹介するのがヨハネでした。

 

ところが、そのヨハネの働きに不満を感じたのが「エルサレムのユダヤ(19)」教指導者たちでした。彼らは「祭司やレビ人(19)」を派遣し、尋問します。建前は「赦しの権威」の確認。ヨハネは「メシア、或いはエリヤやモーセ(21)」の再来かと確認されます。内実は「高い人気の嫉妬」「収入低下」への懸念もあったでしょう。言葉のやり取りの中で、ヨハネは主を証し(26-27)します。そしてこの福音書で、主イエスもベタニアに登場するのです。

 

ヨハネ福音書には、ルカのような「抒情的」なクリスマス物語はありません。でもしヨハネ福音書の記述も、クリスマスの一面を言い当てています。ヨハネ福音書で、主イエスは悩み、病むものが住み、「文字通り低い」ベタニア村に来られ、公生涯を始められた。これも「クリスマス」ですね。日没が早くなっています。色々と「深みを増す闇」の中にいることを思います。そこにも主が居られ、私たちと顔を合わせ(悔い改めの前提)ることを覚えたい。