2022年4月26日火曜日

4/16.17 牡丹と看板、室内植物

 

 4/26(火)徳山チャペルの牧師館です。

 外は、この時期にしては珍しい土砂降りの雨。

 さかのぼって4/24(日)防府チャペルの正面風景です。

 看板が教会員の奉仕によってきれいに塗られました。

 ガラス戸車も修理されました。

 さらにさかのぼって4/23(土)柳井チャペルの庭です。

 教会員が大根島(島根県松江市宍道湖)で求めた牡丹が今年も、

 大輪の花を咲かせました。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

4/27 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

4/30  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/1 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

5/4 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

5/7  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/8  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ヨハネ福音書20:1929 (210)

   Gospel of Luke20:1929  

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 説教               「見て、信じたトマス」 

ヨハネ福音書では、復活の日の朝に主の墓に入ったのは男性の弟子たちでした。そこで見出されたのは、主の体を覆っていた亜麻布のみ。この時点で主の復活は、弟子たちの心にはありませんでした(209)。その日の夕方、弟子たち「ユダヤ人を恐れた(19)」。民族でなく、「ユダヤ教宗教者」という意味です。弟子たちは、主の体を盗んだという言いがかりを付けられ、逮捕されると考えていたのです。その弟子たちの中に、主が立ちます。

 

「波がある」人間の姿を、この日の聖書は語ります。復活の日の朝、弟子たちの心は、言うならば「不調」でした。それが主の出現と共に「好調/喜び」に変わります。主が「手と脇腹(の傷跡:20)」をお見せになられたのも大事です。「傷の責任」を問う見せ方ではなく、赦しを感じさせる見せ方だったのでしょう。「息を吹く(22)」も、「創世記」の人間創造を踏まえた「再創造」が見えますし、「聖霊を受けなさい」の言葉も、力を得させるものです。

 

ところが、この日不在のトマスが8日後合流し、弟子の群れの空気は低調となります。「疑い深い」との二つ名で後世呼ばれるトマスが、「信じない(25)」と宣言したのでしょう。弟子たちは家にこもり、鍵をかけた状態に戻ります。「恐れや不安も伝染する」ことの経験はあります。復活の日の朝、行方不明で、8日後に戻ったトマスの心は、他の弟子たちの心にも影響を及ぼしたのでしょう。主は、そのような弟子たちのもとに再度、現れるのです。

 

「あなた方に平和があるように」とは、一度目(19)、二度目(26)の訪問時に主から出された言葉です。一度きりではなく幾度も、主は弟子たちに語りかけるのです。ヨハネ福音書14章には「心を騒がせるな」という言葉で、主の告別説教が始まります。主のお言葉を覆すようですが、心は騒ぐもの、それは弟子たちが示す通りですし、経験があります。昔も今も、主イエスは私たちの日常生活の只中におられるのです。「恐れや不安」の中に。