2022年4月5日火曜日

4/2.3 礼拝堂と看板

 

 4/5(火)朝の徳山チャペル礼拝堂です。

 聖壇の色は紫、お花も紫でした。

 4/3(日)の防府チャペル、玄関からです。

看板が新調・・・ではなく、補修されました。

ただ、新調と見間違うほどの、丁寧な働きでした。説教題も映えています。

 4/3(日)の防府の礼拝堂です。

水仙が良い香りすぎて、くしゃみが。‥。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

4/6 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

4/9  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/10 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

4/13 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

4/16  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/17  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

    ヨハネ福音書12: 1 8 (191)

   Gospel of JOHN 12: 1 8

1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

 7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 説教               「愛は天下の回り物」 

「イエスは涙を流された」。これは聖書の最も短い文章で、「ラザロの復活」内でその言葉が発せられました。今日の聖書は、その場面の後日譚となります。場所も登場人物等、皆その場面からのものです。過越祭「6日前」、主ご自身の十字架のほぼ一週間前、ベタニア(「悲しむ者の家」)で、主はラザロの家に向かいました。まめに働くマルタ、主の足元にたたずむマリアの姿は、以前と変わらずでした。ただマリアの手に「香油」がありました。

 

ベタニア村という居住地から、マリア達兄弟はユダヤのどこかの町村を放逐されたと考えられます。そのマリアにとり、香油はなけなしの財産。用途は葬祭用/貴人送迎用でした(23)。想像ですが、自身や兄弟姉妹の「終活」のためかもしれません。主によって兄ラザロの死は覆りましたが、今マリアは主のために香油を用います。「貴人送迎用」として自分のものを、自分の欲する所に用いたのです。主への感謝のしるしとの思いでしょう。

 

一方で非難するユダ。彼は主の弟子集団の会計係でしたが、中身を「ごまかしていた」とあります。他者のものを、自分の欲する所に用いたのです。事柄は明らかですし、「ヨハネ福音書」もユダについては「盗人」と言います。しかし、肝心の主は、特にユダのそのことは触れません。むしろユダに「マリアは香油を自身の葬りの日」のために取り置いたと言われます。主は「自分のものを差し出した」マリアとご自身との近しさを語られるのです。

 

「差し出したもの」は、マリアの場合は香油、主の場合はご自身の命でした。ただし、主の「命の葬り」は、結果的には訪れないものでした。「復活」の日の朝、それを女性たちは目の当たりにします。「いつも一緒にいる(7)」ための復活でした。今日は、「愛は天下の回り物」、主がマリアたち家族に与えた愛が、マリアによって主に帰ったことを覚えたいのです。主からの恵みが、私の誰かへの思いになります。頂いたものを、「回して」行きましょう。