2022年9月27日火曜日

9/24.25 礼拝堂の様子

 

 9/25(日)防府チャペルの礼拝堂です。

 先の台風の影響か、奥に雨漏りの跡がありました。

 9/24(土)の柳井チャペルの礼拝堂です。

 なぜか、秋は紫の花のイメージが強いのです。

 さかのぼって、9/21(水)の六日市の礼拝の後の花です。

 会員の方が、花の名を調べ、付箋で示して下さいました。

 左の白い花が「ヒヨリバナ」、右が「ヤブマメ」と読めます。

 広島での「西教区女性会修養会」への参加など、先週は動きのあった日々でした。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

9/28 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

10/1  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/2 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

10/4 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

10/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/9  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

 説教             「隔てを超える神の愛」 

数ある「規定」を用いるのは人となります。聖書にも「清浄規定(創世記7.8)」等があります。この背景と解釈、運用を説くのが「ファリサイ派(1614)」と呼ばれる人々でした。彼らの名は「分離する人」という意味でした。皮肉にも、自身だけでなく、他の人々の生も「分離」されて行きました。「祝福と呪い」等、その差は埋めがたいものでした。従って、富める者と、その他の者の分断は広がる一方でした。主は現状に一石を投じる話をなさいます。

 

本日のたとえ話の内、「ラザロ」とは「神さまの憐れみ」を意味する名前です。さて、金持ちの日々の生は、分かりやすく描かれています。貧者も同様。「保護規定」(落穂を残す。レビ2322)はありました。しかし「神は律法を守る者を祝福する(28)」との思想から、「貧しい者は祝福から遠い」という考えも主の時代は支配的でした。主は上述の「保護規定」も踏まえ、ファリサイ派に、神の愛のみ言葉に思いを向ける話をここでなさるのです。

 

生前は「門」で区切られていた金持ちとラザロは、召されてから、立場が逆転します。陰府(というより、私たちがイメージする地獄)で苛まれる金持ちは、自らの癒しを求めます。叶わないと知るや否や、兄弟に警告することを求めます。しかしそれも叶わない。今、この時、み言葉に耳を傾ける勧めがなされるのです。「清浄規程」が生まれた背景、解釈等は説かず、むしろ自儘に人々を分離し続けるファリサイ派への固い言葉がなされるのです。

 

さて、この話は実は奇妙なのです。主の話の中で、「たとえ話」に登場する人には名がありません。ここだけは「ラザロ」です。この世では、現実的な「線引き」「分離」はあります。それは私たちも覚えるものです。しかし神の憐れみは、その分離や線引きを超え、金持ち含む全ての人に及ぶのです。主はそのことを示すため、「冨」が現実的に幅を聞かせる「たとえ話」の中で、それを超える「神の憐れみ」を語られたのです。隔てを神は、超えられます。

 

 

 

2022年9月20日火曜日

9/17.18 台風とそれぞれの教会

 

 9/18(日)の防府チャペル。

 外は台風接近の直前の様相でした。

 風に煽られるという体験は久しぶりでした。

 9/17(土)の柳井チャペル。

 多少、風が強くなっていました。

 庭の柿の木、イチジクはどうなっていることでしょう。

 再び9/18(土)徳山チャペル。

 地面からのアサガオはまだまだ元気。台風一過の今も同様です。

 さかのぼって9/14(水)の六日市チャペル。

 実に、二か月ぶりの対面礼拝でした。

 台風は、大きな被害を及ぼしませんでした。

 しかし各地の惨状を覚え、痛みを覚えています。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

9/21 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

9/24  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

9/28 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

10/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/2  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

ルカ16: 110(140)

1イエスは弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。  

4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかどちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」

 説教               「小事に忠実であるように」 

「箴言」とは、「いましめる言葉」で、今日にも通ずる格言が含まれています。「冨」とは、「…鷲のように翼を生やして、天に飛び去る(235)」と雄大に言われています。それは、手元にある時は喜びと安心の象徴です。でもどこから来て、どこへ行くか分からない一つと言えます。冨に関わる出来事は、明るみに出て始めて全容が分かるものと言えます。主が語られた出来事(1-8節前半)は、実際に起きた出来事でしょうし、今日も起こり得ます。

 

「金持ちの管理人」が例えていることは、何でしょうか。ある金持ちは神さま、管理人は主イエスご自身、管理人は「告げ口をする人(1)」によって窮地に立たされます。実態は不明ですが、管理人は失職寸前です。その時管理人の取った行動は「金持ちに借りのある人々の負債を赦す」ことでした。金持ちは、自身の損害請求は二の次で、「管理人を褒めた(8)」のです。管理人も、自身への責任追及は二の次で「赦す」立ち位置に回るのです。

 

この「金持ち」「管理人」共々、不思議です。直前の「放蕩息子の父」にも通ずる「不思議さ」です。あの父親は、自身の威厳ではなく、息子たちを出迎えることを優先しました。父は子どもたちを赦すのです。ここでも管理人は負い目のある人々を、金持ちは管理人を赦すのです。これは貸借や不正を勧める話ではありません。ルカが「一部始終(14)」とまとめるこれらの話は、自身の損害(労力や痛み)を越えて人を赦す、愛の神の姿です。

 

その対象は人、携えるものは冨です。聖書の理解では元来、「託されたもの」としての冨があります。「神と富とに仕え得ない(13)」という結びから、富が悪魔の化身とされた中世時代もありました。今日、富を悪魔とは理解はしませんが、人を戸惑わせる力があることは確かです。「小事に忠実に」とは、託されたという事実に忠実に生きることと言えます。冨に限らず、全ての託されたものを用いて、つながりの中に生きていきたい。