2020年8月12日水曜日

8/8.9 礼拝

このブログの仕様のせいでしょうか、撮った写真を載せられません。

そのうちに直したいと思います。

 

 

今週、来週の礼拝は下記の通りです。



8/8 土曜日 15時 柳井C礼拝 

8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

マタイ福音書1422-33

 今日の聖書は、いつの時代でも、そしてどのような人にも「あてはまる」話と言えます。一体何が、「あてはまる」要素なのか。およそ「逆風、漕ぎ悩むこと(24)」や、「波(24)」という周囲の状況に「悩まされる」経験は、人類共通の課題でしょう。そのような渦中にあって、主が近づき、船は無事に目的地に着く。始めて聖書を読んだ時は、何とご都合主義と思えました。「主に信頼をし、生きる」という教えが香ります。しかしこの話を深く読む時、ご都合主義でなく、現実の中で導かれた話となります。共々に、み言葉を聞きたい。

 

「現実」とは何か。それは思い通りに行かないことの繰り返しです。上で触れた「逆風」や「漕ぎ悩む」こと、「強いられる」こと。22節には「弟子たちを強いて船に乗せた」主のお姿が記載されています。朝晩の大風がガリラヤ湖に吹くのをご存じの主が、なぜ弟子たちを船に乗せたか。弟子たちはなぜ従ったか。時にはこのような不条理に、人は直面すること、人は不条理に逆らえないこともある、不意の困難に出会うことの象徴でしょう。

 

嵐の混乱の中で、主はあえてご自身を現されます。自失状態であった弟子たちは、主を幽霊と見做してしまいます。また主はあえてペトロに、来よと言われます。疑うペトロは溺れてしまいます。主は上記の乗船も含め、「あえて」色々なことを命じられます。弟子たちはその都度慌てる姿を示すのです。しかし根気よく導かれる主に「助けられて(30)」、目的地へと着く。弟子たちはその後、自身の姿を他者に伝え、これが福音となるのです。

 

今の時代がどこに向かうのか、私たちがどこに向かうのか、それは分からないことです。決して思い通りになることはないでしょう。「逆風」に漕ぎ悩む、「強いられて」不条理に直面させられることもあります。しかし、私たちにはそのような現実に向かい合うための言葉があります。「主よ、助けて下さい(30)」これを主は、祈りの言葉として私たちに下さいました。人生そのものも、或いはこの数カ月の事態も、嵐のような状況です。漕ぎ悩む過程の中で、私たちの船に主が共にあることを支えとして、日々を過ごしていきたい。

 

2020年8月4日火曜日

8/1.2 礼拝堂(平和礼拝)

平和礼拝の写真を撮ったのですが、「サーバーの不具合」ということで
 写真掲載ができませんでした。そのうちに載せたいと思います。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

8/5 水曜日 19時 六日市礼拝

8/6 木曜日 13時 本教会 臨時常議員会(ZOOM会議)

8/7 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       この日は休みとなります。 

8/8 土曜日 西教区 常議員会(メイル持ち回り会議)
       15時 柳井C礼拝 

8/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1413-21

 マタイ福音書が主(やその父ヨセフ)に多用する言葉があります。それは「退く」という言葉です。退却や引退など、敗北あるいはそれを予感する言葉に「退く」が用いられています。日本語では、何かの失敗、失策を予想させる言葉となります。ところがマタイ福音書は、主の場合には「失敗、失策」ではなく、「神さまの導きの中の転進」の意味を持たせるのです。「洗礼者ヨハネの死」を通して主に示されたのは、そのような「退き」でした。

 

 主は、「船に乗り、人里離れた」所に退かれた。「船」とありますが、ガリラヤ地方のことでした。「死の影の地 416」と、別の地方からは蔑まれていた土地でした。主がガリラヤへ「行かれたこと」を「退かれた」とマタイは表現するのです。マタイの意図では、主は「引退、退却」されたのではなく、「使命として、召命を受けてそこに転進された」ということなのです。神さまは、主とガリラヤ地方の人たちとの改めての出会いを企図された。主ご自身も、神さまによる出会いのきっかけを受け、そこへと歩みを向けられたのです。

 

「ガリラヤは“死の影の地”である」というような、およそ私たちの感性ではそういう呼び方を他地方に向ける事はありません。これを現代の言い方に直せば、「地域ぐるみの蔑視、いじめ」を受けていたということです。ガリラヤの人々の生き方も気持ちも「退く」。そこに主は歩みを重ねられたのです。「五千人の給食」の話の発端も、「十分なものがない」という弟子たちの気分の「後退」感でした。主はその弟子たちにも共感され、人間の思いの限界を超えた「給食の奇跡」を為される。「退く」者に主が近づかれるのです。

 

さまざまな意味で、「退く」ことが求められる時代です。「活動の縮小、限定」が課せられます。また今日の時代的な背景ではなく、私たちには個々に「ふさぎこむ、内に向かう」時を送ります。その私たちに今日示されるのが「ガリラヤに、神さまと自らのご意思で歩まれる」主のみ姿なのです。一つの場所で合同礼拝を行い得ない私たちですし、分断が見える世の中ですが、まぎれもなく主は、「退く」私たちの心に思いを寄せて下さる。



2020年7月21日火曜日

7/18.19防府と柳井


 7/18(土)の柳井教会の礼拝堂です。
 掛け軸はヨハネ福音書「一粒の麦」の箇所となります。




 こちらは防府教会。7/19(日)です。
 徳山を出がけに来客、お話を伺った出がけの電話、
 そして徳山を出たら道路渋滞と、あやうく遅刻しそうでした。

 今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/22 水曜日 13時 臨時常議員会(テレビ会議)
       19時 六日市礼拝

7/24 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       この日は休みとなります。 

7/25 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/26 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1324-30

 「麦と毒麦の話」がこの日、与えられています。解釈の一つは、蒔かれた畑がこの世。「善悪」とされるものが混然としている中、軽々しく判断せず、「終わりの時」を待つようにということです。このような「終末時の清算」は、主の時代に流布していた考え方の一つです。では、私たちのこの時代にこの話は、どのような理解が出来るか。「畑」を私たちの心と定めつつ、その中にある「良い麦、悪い麦」を考えて行くことが出来ると思うのです。

 

 そもそもこの話は「悪の問題」に向き合う主の話と理解します。「なぜこの世に悪が存在するのか、それにどう向かうのか」は、「古くて新しい問い」なのです。かつて人生の日々に悩んでいた時、詩編59篇、ローマ12の言葉に導きを得た思いがします。神さまの働きに委ね、信頼すること。それが聖書の回答の一つです。ここでも、他者に害を与えうる「毒麦」が、「そのまま」で、終わりの日に刈られるという結論に胸を打たれます。

 

 「悪の問題」への主としての見解は「悪魔、悪者」の仕業ということです。存在することと思いますし、その所業と思えることにも直面することがあります。神さまのご差配にお任せしつつ、しかし私たちは「自分の悪、毒麦」にも謙虚に目を向けたい。自身の内にある「他者への痛み」を生み出す毒麦を思う。それを主は「毒麦を抜こうとすると、良麦までも抜いてしまう(29)」と言われます。実際、麦も毒麦も、地中で根を絡ませるということです。私たちの内面も、複雑に絡み合う中で主は「そのままにせよ」と、そう言われます。

 

 主のみ弟子の一人に「熱心党のシモン(104)」が居ました。武力闘争で悪と向かい合う団体に属する者です。極例と思いますが、この世や諸事への「力」のアプローチには限界ある。善悪を人の眼で峻別し、仕分けることには無理があると思います。確かに私たちの身近で為される「不正義」は無視できず、「立ち向かう」のです。出来ること、可能な所には参与し、最終的な所は“そのまま”に結び付くのかと思います。自身のことにも他者にも、為すべきを為し、語るべきを語り、導きの主に任せる。そうありたいと思う。