山口県にあるルーテル教会は6つ。そのうち、柳井、徳山、防府を
西川晶子牧師が担当し、私は宇部、厚狭、下関の担当をしました。
上記は宇部教会。昼には、「ひさしぶり」と言われるうどんを頂きました。
こちらでは礼拝後、きょうこさんのうちのお一人が造られた「スコーン」を頂きました。
お残りになられた方々は、教会員お手製のパン、おかずを頂きながら、オルガン、フルートを聞いていました。
奏楽者のそばには納骨堂もあります。良く聞こえたことでしょう。
デザートを頂きました。6/29(日)この日は、島根県にあるルーテル教会の六日市礼拝所からの知らせがありました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
7/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
7/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
6/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第3主日 説教
ルカ福音書9章51節-55節 「主イエスの目の前に」
水原一郎
① 本日の聖書箇所、ルカによる福音書9章51節からは、主イエスの歩みにおける重要な転換点が記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。これは、主イエスが十字架に向かう道を、自ら選び取られたことを示しています。ただ神の子としての使命のためではありません。現実を生きる人々に寄り添う、主イエスの深い憐れみの決意があるのです。
② 51節に記される「エルサレムに向かう決意」という言葉。この表現はイザヤ書50章7節の「顔を硬い石のようにする」を思い起こさせます。神に遣わされた者が、嘲られ、打たれ、捨てられてもなお、神に従い続ける姿勢を表す言葉です。イエス・キリストは、まさにそのように、拒絶されることを承知の上で、十字架への道を歩み始められました。そこには、ためらいではなく、愛の意志があります。私たちもまた、人生のある時、「顔を堅くして」歩まねばならない場面に出会います。痛みや犠牲を引き受けてでも進まなければならない時、主のこの決意は私たちにとって慰めとなります。
③ エルサレムへの途中、イエスはサマリア人の村を通ろうとされます。しかしその村は、イエスを受け入れようとしませんでした。ユダヤ人とサマリア人の間には、長い確執と対立の歴史がありました。サマリア人にとって、エルサレムは「敵の信仰の中心地」であり、そこへ向かう旅人を歓迎しないこともあったのです。イエスは、拒まれました。
④ しかし、問題はその後です。弟子たち、ヤコブとヨハネは怒ります。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(9:54)。まるで旧約の預言者エリヤのように、神の裁きをもって報いようとしたのです。けれども主イエスは、それをきっぱりと退け、彼らを「戒められた」とあります(9:55)。イエスは、力によって報復する道ではなく、憐れみと忍耐の道を選ばれました。その村を去り、「別の村に行った」という一言の中に、主の福音の姿勢がにじみ出ています。怒りではなく、裁きでもなく、相手の自由を尊重し、福音のために次の地へと進む――これが、キリストの姿です。
⑤ 主イエスの歩みは、敵意に対して火を降らせることではなく、むしろその火を自らに受け止める道でした。サマリア人もまた、神の救いの対象です。そして実際に主イエスは、後に「良いサマリア人」のたとえ(10章)や、「十人の重い皮膚病の人の中で感謝したのはサマリア人だった」(17章)という出来事を通して、明らかにしていきます。
⑥ 私たちもまた、人生の中で「顔を堅くして」進まねばならない時があります。理解されない、拒まれる、あるいは正しさが伝わらない――それでも私たちは、歩みを止めてはならないことを知っています。私たちが生きているのは、現実の世界だからです。私たちの向かう先には、誰かがいるからです。しかしかつて、拒まれながらも、なお歩み続ける主の姿が、この日のみ言葉です。主の後を、私たちも歩む者でありたいと思います。そして、目の前のひとりに、怒りではなく、憐れみをもって接する一週間を歩みましょう。