2020年11月25日水曜日

11/21.22 礼拝と礼拝堂

 

 久しぶりにパソコンから写真を掲載することができました。

 11/22(日)午後は広島県三原教会に、牧師就任式のために出かけて来ました。

 上記は三原教会の正面外です。

 長く教会を支えておられる方々との礼拝でした。

今週、来週の予定は下記の通りです。

 
11/24 火曜日 10時 牧師 松山出張
 
11/25 水曜日 19時 六日市C礼拝

11/27 金曜日 休会 聖書を学ぶ会
 
11/28 土曜日 15時 柳井C礼拝 
        16時 牧師 常議員会

11/29 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 
 

  「羊と山羊の飼い主」 マタイによる福音書 25: 3146(新約49ページ)

幼い頃に見た、江戸期の諸資料の記憶が残っています。「からくり絵草子」で、内容は「仏教の地獄」の説明。「悪いことをすると地獄に行く」が心に刻まれたものと思います。だからと言って、その絵草子を見てから真人間になったかというと、そんなことはありませんでした。諸宗教にはいわゆる「死後の世界」を語ることを通して、道徳的教説に結び付けることがあります。今日のこの聖書を、私たちはどのように理解するのか。共に聞きたい。

 

聖書記載の「最後の審判(31-33)」の当初に行われることは、人の二分化です。基準は「無心の一善(37)/無感心(44)」となります。このような審判が今後いつ開かれるのかは分かりません。ただ、書かれていることから、「無心の一善」への促しが為されることは確かです。教会の歴史でも、私たちの教会でも「全ての人のそばに立つ主のみ姿」を表して来ました。具体的には様々な活動が、かつて為され、現在進行形で為されています。

 

ただ幾つかの問題が浮かび上がってきます。言うまでもなく私たちは、出会う人全てに聖書通りには成し得ない、単純な二分化は出来ません。メトロノームの如く、日々揺れながら生きるのです。主はその心持ちを抱える私たちに、「羊と山羊」を話して下さったのです。旧約でも評価は不定です。彼らは「自由な動物」であり「捧げ物の動物」でもありました。しかし決定的なのは、両者ともに「罪の担い手(レビ1610)」とされていたことでした。

 

聖書の末尾で「永遠の火(41)」「罰(46)」に目が引かれます。ただ、かの日にそのように「整えられる」のは私たちの中の「山羊的な部分」ではないか。むしろ、山羊的な部分を持っているからこそ、主が十字架に架かられ、復活なさり、私たちを日ごとに導かれるのではないか。私たちにはこの主があることを確信し、身近な方々に「主の導き」があることを祈り、関わりたい。羊飼いなる主は、山羊の要素も持つ私たちをも導かれるのですから。

 

2020年11月15日日曜日

11/14.15.18 礼拝と思い出

徳山Cにて。

御父君が地学の先生であった方を思いつつ、捧げられたお花です。

益田小浜の海。先週の六日市C礼拝後にこの話になりました。

かつてはこの益田小浜の地で、ルーテル教会のキャンプが行われたとのことです。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

11/16 月曜日 10時 テレビ電話会議
 
11/17 火曜日 10時 テレビ電話会議
 
11/18 水曜日 19時 六日市C礼拝

11/20 金曜日 14時  聖書を学ぶ会
 
11/21 土曜日 15時 柳井C礼拝 

11/22 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 説教               「となりの芝生も青い」 

マタイによる福音書 25: 1430(新約49ページ)

聖書の「タラントン(15)」は貨幣単位で、「数十年分の収入」を意味する言葉です。また「タラントン」が「力に応じて(15)」預けられたことから、「才能(タレント)」の語源になった言葉でもあります。いわゆる「タレント」は「一芸に秀でた人」とされています。様々な所で比較され、評価される世の中、「隣の芝生は青く」自身の貧しさ、他者の豊かさを感じることがあると思います。主がなぜ、この話を弟子たちに為さったかを思いつつ、聞きたい。

 

主人は、それぞれ異なる金額を預けて旅に出る(15)。預かった人々は、ある人は運用、ある人は収蔵します。帰宅した主人は清算を始め、「用いた人々」を称賛します。倍の利益は一つの結果でした。さて、1タラントンの人は、主人に言い訳します。彼にとっては、主人は「理不尽」な存在でした(24)。思いこみの理不尽さのゆえに、自分は何もしなかったと語る。いわば独り相撲を取るのです(25)。主人の彼への怒りには二つがあったと思う。

 

一つ目は「賜物を用いなかった」、二つ目は「責任転嫁」したことでした。「52タラントン」の「利益」は「結果」です。「用いること」が必要だったのです。しかし1タラントンの彼は「主人に、愛でなく恐れを感じた」。だから彼は「失敗を恐れ、無為に過ごす」のです。この話で主が弟子たちに伝えたかった要点は、彼の真逆の姿です。託された自分の「性格、賜物、持ち物、才能」をどれだけ「周囲」に用いているか。それは私たちにも向けられます。

 

5タラントも2タラントも莫大な額「5億円、2億円」です。しかし神の眼差しでは、同じ「少しのもの(21.23)」と見做される。人の眼は、才能の多寡を判断しますし、この世の指標ではなおさらのこととなります。しかし神が私たちに何を託すかは、私たちが神さまのとの関わりの中で見出すことです。我が目には、我が姿は貧しい。しかし「主の目にあなたは価高い」「あなたの芝生も青い」。だから私たちは、隣人のために働くものでありたい。