時系列としては、より新しいものです。
6/14(土)柳井礼拝。結構強い雨の中、それでも大勢の方が
「三位一体主日」の礼拝に集われました。
バージンロードが中央にあります。右側にはお花。
式をあげられたお二人の上に、神さまの祝福を祈ります。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
6/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
6/25 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。
6/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会します。
10時45分 徳山チャペル礼拝
西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。
15時 防府チャペル礼拝
西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。
6/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
復活節3主日 説教
ローマの信徒への手紙5章1節-5節 「失望に終わらない希望」
水原一郎
①
年間52回ある礼拝の中でも、「三位一体主日」はキリスト教信仰の土台を見つめ直す特別な時です。父なる神、御子イエス・キリスト、そして与えられた聖霊――この三者の一致と働きが、私たちの救いのすべてを支えているからです。
②
この手紙はその名のとおり、「ローマのクリスチャン」に宛てられたものです。彼らが直面していた「苦難」に対して、パウロは「希望へと至る道」を示そうとしました。彼の語る言葉の背景には、パウロ自身が経験した様々な苦難がありました。そして、それらがやがて希望へと変えられてきた実例があるのです。すなわち、この御言葉は、実際の苦しみのただ中で与えられ、語られた、生きた言葉なのです。
③ 私たちも今、それぞれに苦しみや重荷を抱えています。心や体の不調、働きの行き詰まり、人間関係の痛み……。そうした現実に思いを向けつつ、「パウロの苦難」に耳を傾けてみたいと思います。聖書に描かれている彼の苦難とは、病による疲労、宣教の不振、信頼して委ねた教会の混乱など、多岐にわたります。たとえば、パウロは「自分の肉体にとげが与えられた」(第二コリント12:7)と語っています。これは心臓の疾患と考えられています。また、「投獄」されること(第二コリント11:23)や、説教が群衆の妨害にあったこと(使徒13:44)、地方教会での混乱(第一コリント1章、ガラテヤ1章)なども経験しました。さらには晩年、協力者に見捨てられ孤独に苛まれた様子も、第二テモテ4章に記されています。
④
しかし、パウロが特異なのは、そうした苦難を「ただの不幸」としては受け取らなかった点です。彼はこう語ります――「(神さまの/主イエスの)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)。つまり、自身の弱さの中にこそ、主の力と導きが現れると信じたのです。今日の箇所でも、苦難が「忍耐」へ、そして「希望」へと変えられていく過程が語られます。さらにその希望は、「私たちに与えられた聖霊によって注がれた神の愛」に根ざしているとも語ります(5節)。私たちがどんなに弱くても、聖霊が内から働き、神の愛を思い起こさせ、支え続けてくださる。それはパウロ自身の体験であると同時に、第三者である「ローマの教会」「私たち」にも当てはまる真理です。
⑤
「苦難をも誇りとする」(5:3)という言葉は、決して軽々しく受け入れられるものではありません。私たちは、苦難の時、信仰や聖書の知識だけでは耐えられないと感じるからです。祈る力さえ失うことがあります。それでもパウロは繰り返します―「キリストによって」(1節)、「キリストのおかげで」(2節)。自分自身の信仰の強さに頼るのではなく、どんな時も私たちを導くキリストにこそ目を向けよ、といいます。信仰が強いか弱いかではなく、「キリストが共にいる」という確かな事実に頼るのです
⑥
神は、御子キリストを通して、今も私たちに働きかけておられます。その働きが最もはっきりと現れるのは、実は「苦難のただ中」にあるのです。今は苦難が重く、希望など到底見出せないと感じるかもしれません。しかし、後になってふと振り返ったとき、「あの時、神の御手が共にあった」と気づかされる――それが信仰の歩みなのです。希望とは、昔の記憶に生まれ、現在の私たちを静かに支える力、今の苦難に生まれ、未来を支える力です。どのような状況にあっても、神が確かに私たちを導いてくださる――この確信を胸に、今週もそれぞれの場所へと遣わされていきましょう。