6/5(木)徳山チャペル玄関にある、小さな水族館。
徳山チャペルを会場にして活動する「うたごえの会」Nさんと、
柳井チャペルの場所で活動している「一粒の麦」の理事Kさんが下さったものです。
青メダカとオレンジメダカの二種です。
ひっそりと、夜市川(道の駅:ソレーネ周南)にいたハヤも。
こちらは防府。梅雨入り前の天候でした。今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
6/4 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
6/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
6/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
復活節7主日 説教
ヨハネ福音書17章20節-26節 「祈りの中で、誰かが生きる」
水原一郎
① 本日は、ヨハネによる福音書17章20–26節が日課として与えられています。
「未来を信じる主イエス」というテーマのもと、御言葉から力をいただきましょう。
②
今日のみ言葉は、主イエスが十字架に向かわれる前に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。祈りとは、今日、主イエスがお示しになる通り、神さまとの対話です。願いや思い、嘆きや悲しみ、変えてほしい現実―それらすべてを神さまに差し出す行為です。感謝や賛美だけが祈りではありません。主イエスもここで、ご自身の「願い」として「一つであるように」と繰り返し祈られます。この「一つ」が、今日の鍵です。
③ 20節で主は、「彼らの言葉によって私を信じる人々」のために祈っておられます。「彼ら」とは弟子たちのことです。このとき弟子たちは、主の傍にとどまり、祈りに耳を傾けていたでしょう。しかしこの後、主が捕らえられると、弟子たちは散り散りになります。ペトロの否認を始め、多くが恐れに駆られ、自らの身を守るため逃げます。にもかかわらず、主はその弱さを見越しながらも、「彼らを一つにしてください」と祈られます。主の信頼は、弟子たちの「一時的な態度」に左右されるものではありません。
④
この祈りは、ヨハネ福音書が記された時代背景とも響き合っています。ヨハネ福音書の時代、ユダヤ教とキリスト教の間には決定的な分断が生じていました。エルサレム神殿はすでに破壊され、キリスト教徒はユダヤ教の会堂から締め出されていたのです。礼拝の場所を失い、信仰の拠り所が揺らぐ中で、ヨハネは主イエスの「一つであるように」との祈りを記録に残しました。それは分断の只中にあっても、信徒たちが神と、そして互いと「一つ」とされているという信頼の言葉だったのです。
⑤ 「一つであるように」という祈りは、現実の分裂や困難を見越したものでした。これから弟子たちに降りかかるのは、命の危険です。その中で信仰を守り続けることは、決して容易ではありません。主はその厳しい現実を知りつつ、十字架と復活を見据えて、「彼らを一つにしてください」と神に願われます。たとえ彼らが物理的に離れ離れになっても、神の支えと導きがそこにあると信じて祈られているのです。
⑤
主は21節と22節で「一つ」という言葉を繰り返されます。21節では、弟子たちも、彼らの言葉によって信じる人々も、すべてが「一つ」とされるよう祈られます。22節では、御父と主イエスが一つであるように、人々もその交わりに加わることを願っておられます。 23節では、主が弟子たちの内におられることが明言されます。弟子たちは外からの危機に直面し、保身に走ります。しかし神と主イエスは、離れた場所にいても、彼ら一人ひとりと共におられる――それがこの祈りの約束です。
⑥
26節では、「御名を彼らに知らせた」と語られます。出エジプト記3章14節で、神はご自身の名を「わたしはある」と示されました。過去にも、現在にも、未来にも、存在されると。「あなたの傍にある」お方であるという宣言です。 主イエスが示された神は、人の歩みを気にかけ、支え、迷いの中では「どこにいるのか」と呼びかけてくださるお方です。そのような神の名が、主によって弟子たちに示されたのです。
⑧ だから主は、20節で「弟子たちを通して信仰に至る未来の人々」がいると宣言されます。この弟子たちを通し、信仰者が生まれる確信を主は抱いておられます。別の福音書ですが、ルカ22:32「立ち直るペトロ」を主は確信しています。「あなたは、立ち直ったら(他の)兄弟たちを力づけなさい」と。この確かな祈りの中に、私たちもまた包まれています。与えられたこの一週間、主と共に、一つとされて歩みましょう。
⑨ 祈り