6/10(火)に撮影した徳山チャペル。
聖霊降臨祭と、6/14(土)教会結婚式を控えた様子です。
6/7(土)柳井チャペル。献花は、典礼色のオンパレードでした。
緑の葉、白の花弁、紫の花、そして赤。と。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
6/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
6/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
6/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨祭 説教
創世記11章1節-9節、使徒言行録2章1-12節 「」
水原一郎
①
創世記の「バベルの塔」が、聖霊降臨祭の第一朗読として与えられています。
第二朗読「使徒言行録」と合わせ「神の力が私たちと共にある」ことを聞きましょう。
②
バベルの塔の物語を、塔の「材料」に着目してみましょう。創世記11章3節に出てくる「シンアルの地」とは、現在のイラク周辺、産油地です。この地域では当時、泥を焼いて作るレンガと、天然アスファルトが建築材料として用いられました。これらの技術は、人々により堅く、長持ちする建物を建てることを可能にしたのです。注目したいのは、「石と漆喰」が用いられなくなったことです。新しい技術の登場によって、従来の材料や技能は不要とされていきます。ここには、「新しいものが選ばれ、古いものは捨てられる」という、現代にも通じる構造が表れています。
③
新しい材料が登場したとき、古い素材は不要となりました。石と漆喰を扱う人々の仕事は、知られぬうちに消えていったかもしれません。私たちの社会にも、この構造は見られます。目立たないところで、誰かの居場所が失われています。高みを目指すとき、気づかぬうちに誰かが踏み台になっています。「選ぶ側」にいるとき、私たちは排除される声に鈍感になります。しかし、もし私たち自身が「古いもの」と見なされる立場に置かれたら。神の眼差しは、その仮定に注がれています。
④
1節にはこうあります。「全地は同じ言葉を使っていた」。理想のように思えるこの「一つの言葉」。しかし、危険は潜んでいました。言葉が同じでも、心が通うとは限らないことです。共通言語があっても、「小さな声」である「石と漆喰」に携わる人々の声は聴かれなかったのです。進歩や進化は否定出来るものではありません。しかし、進歩の過程で、私たちは何を失ってきたのか。この社会が忘れているものは何か。「石と漆喰」が忘れられ、「アスファルトとレンガ」が用いられることに現れています。
⑤
ここで、神さまはどこに登場するのでしょうか。5節に「主が降って来て、町と塔をご覧になった」とあります。人は高きを目指します。しかし神は降ってこられます。神さまは、人々の「このようなこと」に対して警告を発されます。「塔の建設」という行為そのものではありません。高きを目指す過程で、不要と見なされたものを「切り捨てる」警告です。そしてそのことは、主イエスの時代も今も同様に起きていることです。現実には、主イエスの時代にもなお、社会から排除される人々は存在していました。その時代の中で、罪人や徴税人といった人々を、主イエスは深く顧みられたのです。
⑥
では、使徒言行録の聖霊降臨は何を意味するのでしょうか。そこでは、多くの国々の人々が登場します。それぞれ異なる言葉を話す者たちが、弟子たちの語る福音を「自分の言葉で」理解したのです。ここで起きたのは、言葉の統一ではありません。「違ったままで、それで良い」とされた主イエスのお姿が、「違う言葉を話す」ことで、もう一度知らされたのです。聖霊は、ただイエスの姿だけを教えたのではありません。弟子たちはペトロの説教の後、社会から排除された者たちと共に歩みました。
⑦
聖霊降臨祭とは、神さまの霊が今もなお私たちに注がれていることを記憶する日です。高みを目指す者ではなく、小さくされた者、沈黙する者、排除された者に、神さまの霊は降ります。だから私たちは、今「周囲の沈黙している声に」耳を澄ませたいのです。聖霊は、私たちを「選ばれし者」にするのではなく、「共に歩む者」へと変えてくださいます。私たちに注がれたこの霊の力を、隣人と分かち合いましょう。