2025年6月29日日曜日

6/28.29 宇部、厚狭、下関(地区の講壇交換)

 6/28(土)は、西教区、西中国地区の講壇交換でした。

 山口県にあるルーテル教会は6つ。そのうち、柳井、徳山、防府を

 西川晶子牧師が担当し、私は宇部、厚狭、下関の担当をしました。

 上記は宇部教会。昼には、「ひさしぶり」と言われるうどんを頂きました。

 上の写真は厚狭教会。この日の礼拝では「3人のきょうこ さん」が集いました。

 こちらでは礼拝後、きょうこさんのうちのお一人が造られた「スコーン」を頂きました。

 上記は下関教会。こちらは礼拝後、「オルガンカフェ」が行われました。

 お残りになられた方々は、教会員お手製のパン、おかずを頂きながら、オルガン、フルートを聞いていました。

 奏楽者のそばには納骨堂もあります。良く聞こえたことでしょう。

 デザートを頂きました。
 6/29(日)この日は、島根県にあるルーテル教会の六日市礼拝所からの知らせがありました。
 そばの広瀬、離れた津和野では昼の NHK の全国ニュースで11時 現在 津和野が35.4°c 錦町広瀬 が34.7°だったそうです。早すぎる梅雨明けの猛暑が気になります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

6/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第3主日 説教 

ルカ福音書9章51節-55節 「主イエスの目の前に」

水原一郎

① 本日の聖書箇所、ルカによる福音書951節からは、主イエスの歩みにおける重要な転換点が記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。これは、主イエスが十字架に向かう道を、自ら選び取られたことを示しています。ただ神の子としての使命のためではありません。現実を生きる人々に寄り添う、主イエスの深い憐れみの決意があるのです。


② 51節に記される「エルサレムに向かう決意」という言葉。この表現はイザヤ書50章7節の「顔を硬い石のようにする」を思い起こさせます。神に遣わされた者が、嘲られ、打たれ、捨てられてもなお、神に従い続ける姿勢を表す言葉です。イエス・キリストは、まさにそのように、拒絶されることを承知の上で、十字架への道を歩み始められました。そこには、ためらいではなく、愛の意志があります。私たちもまた、人生のある時、「顔を堅くして」歩まねばならない場面に出会います。痛みや犠牲を引き受けてでも進まなければならない時、主のこの決意は私たちにとって慰めとなります。


③ エルサレムへの途中、イエスはサマリア人の村を通ろうとされます。しかしその村は、イエスを受け入れようとしませんでした。ユダヤ人とサマリア人の間には、長い確執と対立の歴史がありました。サマリア人にとって、エルサレムは「敵の信仰の中心地」であり、そこへ向かう旅人を歓迎しないこともあったのです。イエスは、拒まれました。


④ しかし、問題はその後です。弟子たち、ヤコブとヨハネは怒ります。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(9:54)。まるで旧約の預言者エリヤのように、神の裁きをもって報いようとしたのです。けれども主イエスは、それをきっぱりと退け、彼らを「戒められた」とあります(9:55)。イエスは、力によって報復する道ではなく、憐れみと忍耐の道を選ばれました。その村を去り、「別の村に行った」という一言の中に、主の福音の姿勢がにじみ出ています。怒りではなく、裁きでもなく、相手の自由を尊重し、福音のために次の地へと進む――これが、キリストの姿です。


⑤ 主イエスの歩みは、敵意に対して火を降らせることではなく、むしろその火を自らに受け止める道でした。サマリア人もまた、神の救いの対象です。そして実際に主イエスは、後に「良いサマリア人」のたとえ(10章)や、「十人の重い皮膚病の人の中で感謝したのはサマリア人だった」(17章)という出来事を通して、明らかにしていきます。


⑥ 私たちもまた、人生の中で「顔を堅くして」進まねばならない時があります。理解されない、拒まれる、あるいは正しさが伝わらない――それでも私たちは、歩みを止めてはならないことを知っています。私たちが生きているのは、現実の世界だからです。私たちの向かう先には、誰かがいるからです。しかしかつて、拒まれながらも、なお歩み続ける主の姿が、この日のみ言葉です。主の後を、私たちも歩む者でありたいと思います。そして、目の前のひとりに、怒りではなく、憐れみをもって接する一週間を歩みましょう。