2020年9月27日日曜日

9/26.27.30 礼拝と献花

 

 徳山チャペルの礼拝堂。椅子が四方に寄せられた状態です。

 朝の光、が良いですね。

 夏の柳井チャペルの礼拝堂。
こちらが防府チャペル。

六日市チャペルは、個人の商店を用いて礼拝をしていますので、なかなか写真が…。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

9/30 水曜日 19時 六日市C礼拝

10/2 金曜日 14時 聖書を学ぶ会
 
10/3 土曜日 15時 柳井C礼拝 

10/4 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 「そのままの姿で、良い」  マタイによる福音書 21:2332 (41)

 宗教の本質的な役割は、人間の「根源的な問い」に向けて、道筋を示すものです。そして「根源的な問い」とは、「生老病死」の事柄や、旧約のコヘレト書3章が語る「人生の時」と表現できます。世間を騒がす事柄や、自身や身近な事を通して、その問いが示されるものです。ことにその問いは、私たちには想像することが難しい(昔の、今の)職種や環境の人々に現れると思います。「洗礼者ヨハネ(32)」の活動は、その人にも向かうものでした。

 

 「徴税人や娼婦(32)」いずれの職種も、当時存在し、従事する方がいたことは確かです。が、その職業は、宗教的な「罪」と定められたものでした。しかし洗礼者ヨハネは、彼・彼女のみならず全ての人に「悔い改めよ、神の国は近づいた」と告げたのです。一定数の「徴税人や娼婦(32)」が洗礼者ヨハネや、その理念を受け継いだ主のもとに集いました。「神の接近」とは、彼らが仕事や生活の中で抱いた「生老病死」の問いに対し、遠回しな「答え」となりました。つまり「近づき、寄添い、支え、導く」神さまのみ姿そのものでした。

 

 聖書で、「ぶどう園の主人(28)」は息子たちを自分の園で働かせようとします。兄息子は、当初は断ります。「働きたくない」「相応しくない」「めんどくさい」などの理由を想像します。しかし「考え直して(29)」働きに出ます。「考え直す」は「悔い改め」とほぼ同義の言葉が用いられています。一方、弟息子は調子よく「承知しました(30)」と言いますが、口だけでした。「徴税人や娼婦」が長男、「祭司長や民の長老」が次男という設定は、聞き手に対する主の皮肉と言えるでしょう。差別を助長する宗教者たちへの、主の憤りがあるのです。

 

 さて、この話の中に私たちは何を見出すか。「職業上の葛藤」が「徴税人や娼婦」の心にあるものとすれば、私たちも抱くことがある。増して、「職業上の葛藤」を「生の過程の中の戸惑い」と言い直せば、より重なる。「悔い改め」というと、何か「礼拝中の事柄」「罪の事柄」と見做されるかもしれません。が、これは「神さまと向かいあう祈り」とも言い得ます。「生涯が悔い改め」とはルターの言葉です。それが、「根源的な問い」への答えなのです。

 

 

2020年9月20日日曜日

9/19.20.23 礼拝と写真

 

 柳井チャペルの裏側、畑が広がっています。

 「一粒の麦」の利用者の方々が用いています。


彼岸花ですね。そろそろ、田んぼのアゼやクロに生えてくる季節です。

アゼは畔、クロは畔。いずれも「田を半分にする」ということです。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

9/23 水曜日 19時 六日市C礼拝

9/25 金曜日 14時 聖書を学ぶ会
 
9/26 土曜日 15時 柳井C礼拝 

9/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 説教               「神の思いと人の思い」  マタイ 20: 116 (38)

 午後5時の夕日が、広場を照らしていました。そこに、働く気持ちはあった、だが「誰も雇ってくれな(7)」かった労働者たちがいました。彼らに近づく、ぶどう園の主人。主人は労働者たちを、労働者たちは主人を見知っていました。「ぶどう園に行きなさい(7)」その言葉で、労働者たちは被雇用者と立場が変わりました。兎に角も、収穫作業に就きます。一時間後、賃金の支払いの時となりました。彼らには、一日分の日給が支払われたのです。

 

 この日の聖書は、「流れ」で言えば「富める若者」の続きになります。「自らの財産に執着した」若者への「あてつけ」ではありません。あの若者に対しても届けと言わんばかりに、神さまの懐の広さが示されています。冒頭、神さまがぶどう園の主人に例えられています(1)。この主人は「ぶどう園」の働きのため、「町の広場」を気にし、足しげく通うのです(3.5.6)。主人の「ぶどう園」には、どんな人にも応じた、携わり得る働きがあったのです。

 

主人のその眼差しと歩みが、夕方5時の広場にも向けられます。そして招いた、得たのが「誰も雇わない(7)」人々でした。この人々が1時間、どんな働きを為したか書かれていないことは大切です。主人はここで、「何が出来たか」ではなく「ぶどう園に居たこと」を重んじるのです。一日分の支給を得た「夕方5時組」は、喜んだことでしょう。そしてもっと喜んだのは、「朝6時組」でしょう。「もっともらえる?」しかし「朝6時組」への支払いも、等しい1デナリオン。不等労働量の後の、賃金の均一措置に不平を漏らす「朝6時組」でした。

 

 午後6時の夕日が「朝6時組」の手元を照らしていました。翌日、彼らは朝9時くらいまで、ふて寝をしてから広場に出向くかもしれない。だが、後年彼らも気付くでしょう。朝6時には動いていた、元気な体が徐々にその力を失うことに。自らの体と気持ちの衰えに。しかし、その時も、変わらず「主の瞳、眼差し」が「あなたの存在」を見つめるのです。当時、ユダヤでは夕方は一日の終わりと翌日の始まりでした。そこに、明日を生きる糧である「1デナリ」が与えられる。それは、あなたの手にある。だから私たちも、他者の存在を喜びたい。