2020年4月26日日曜日

4/25.26 コンクリートの隙間から

  4/25(土)の柳井礼拝堂…の外の庭です。
 昔はここに牧師館があったそうです。牡丹の花。
 礼拝堂で、讃美歌を歌い、祈って帰りました。
 教会員さんともおしゃべりwithマスク
 4/26(日)の徳山礼拝堂…の中のセルフフォトです。
相変わらずオルガンに置いた写真機でパチリ。
  4/26(日)の防府礼拝堂です。
 礼拝堂で、讃美歌を歌い、祈って帰りました。
 教会員さんともおしゃべりwithマスク
4/26(日)の防府から帰宅後の徳山礼拝堂の外です。
 コンクリートの隙間から、パンジー。
 この命の力に感銘を受けました。

 シオン教会(柳井、徳山、防府、六日市)では、5/6まで
 「礼拝の公開を中止」する措置を取っています。
 これは、「礼拝堂にて、一同に会する礼拝は中止」し、
 皆さまには「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝を守って頂くということです。

 慣れ親しんだ礼拝堂で、親しい方々と会することが出来ないことは
 まことに辛いものです。しかし今、感染症対策の最前線に居られる方々に、
 一層の負担を掛けないためにも、自宅において祈りを捧げることを
 大切と思い、この決断にいたりました。

 「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝をおこなうための「手引き」は、
 教会員各位には今週末に届くよう、手はずを整えています。
 またご希望の方には同様のものをお送りいたします。ご連絡ください。

 感染症対策にあたっておられる方々、
 ライフライン保持のために働かれている方々、
 介護職、教育関係職、為政の現場に居られる方々、
  お一人おひとりの働きを覚え、祈ります。

 本日の説教要約は下記の通りです。



ルカ福音書2413-35
「復活」とは、主のまことに尊い御業です。これは「やがて」の事で言えば、私たちに「永遠の命」を約するものです。言い換えれば復活は、「懐かしい方との再会の希望」となるのです。「近しい」事柄で言えば、復活は「再び立ち上がる」こと。立ち上がれないほどの深い挫折や失望の渦中にあっても、主がわたし、あなたを支えるのです。ことに「復活節」と呼ばれる最近の聖書は、その「挫折の人間」像がある。「エマオ物語」も然りです。

二人の弟子がエルサレムからエマオに向かっています。時間帯は日中から夕方にかけて(29)です。夕方、黄昏時、それは何も時間帯のことだけではないと思います。二人の弟子たちの心境も「黄昏時」に重なると思います。旧約のイザヤ53章の「メシア預言」の中「暗くなってゆく燈心」のような心境だったのでしょう。前段落で主の復活を聴いても「たわ言」と受け止め、エルサレムを出て逃亡の最中だったのかもしれません。主への信頼の揺らぎが顕著な二人の弟子。主はそのような弟子たちと歩みを共になさいます。

主と弟子たちとは言葉を交わします。弟子たちは主を「イスラエルの解放者(21)」と、誤解しています。しかし主はそんな二人の弟子の言葉を聞き、否定しません。しかし主は二人に、聖書全体に渡ってご自身について書かれていること(含む、イザヤ53)を解き明かします。その瞬間こそが「心、燃ゆる(32)」時でした。周囲の状況によって「不安、暗くなる」は人間の常でしょう。主はそんな弟子たちを知り、関わって下さるのです。

この二人の弟子たちはエルサレムに帰るや否や、主を亡霊と思って恐れます。他の弟子たちも然り。人間の「浮き沈み」の心を表すものでしょう。正確に言えば「沈みっぱなし」の姿です。しかし復活の主は、弟子たちが「沈む」度に現れ、力を添えて下さる。そのことを私たちは今週の「福音」として受け止めたいのです。「私たちを沈ませる」こととは、一体何でしょうか。具体的な事象や、形容しがたい思いがあると思います。「再び、立ち上がる」とは、自力では難しいことでしょう。主が私たちに心を添えて下さいます。

2020年4月21日火曜日

4/18.19 礼拝堂

 4/18(土)の柳井礼拝堂です。
献品のあった古紙を届け、礼拝堂で讃美歌を歌い、祈って帰りました。
  4/19(日)の徳山礼拝堂です。セルフフォト。
 簡易礼拝式に従って礼拝を行いました。
4/19(日)の防府礼拝堂…の外の納骨堂です。
 こちらでも、礼拝堂で讃美歌を歌い、祈って帰りました。

 シオン教会(柳井、徳山、防府、六日市)では、5/6まで
 「礼拝の公開を中止」する措置を取っています。
 これは、「礼拝堂にて、一同に会する礼拝は中止」し、
 皆さまには「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝を守って頂くということです。

 慣れ親しんだ礼拝堂で、親しい方々と会することが出来ないことは
 まことに辛いものです。しかし今、感染症対策の最前線に居られる方々に、
 一層の負担を掛けないためにも、自宅において祈りを捧げることを
 大切と思い、この決断にいたりました。

 「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝をおこなうための「手引き」は、
 教会員各位には今週末に届くよう、手はずを整えています。
 またご希望の方には同様のものをお送りいたします。ご連絡ください。

 感染症対策にあたっておられる方々、
 ライフライン保持のために働かれている方々、
 介護職、教育関係職、為政の現場に居られる方々、
  お一人おひとりの働きを覚え、祈ります。

 本日の説教要約は下記の通りです。


ヨハネ福音書2019-31
今日読まれる「ヨハネ福音書」全体には、「過越祭」の描写が多くあります。これは「出エジプト」の手助けとなった古事、ユダヤの人々が出エジプトを為す際、「小羊の血」に導かれた出来事に由来する祭り(出エジ12)です。何かを為そうと思う時、そこには必ず神さまの支えや導きがあります。福音書を書いたヨハネは、主のありし日々を思い起こし、上記が「自分たち」に示されたことを思い出し、それを私たちに伝えるのです。「神さまの導きと助け」それは、今日の課題に直面する私たちにも同様に備えられます。

場面は(19)、主、復活の日曜日の夕方です。弟子たちの心配事は「ユダヤ人(19)」ここでは、「当時のユダヤ教宗教者の一部」という理解になります。恐れと不安の象徴としての「鍵かけ」を為す弟子たち。その輪の真ん中に主が立たれます。「主が、人間の恐れや不安と共に立つ」しるしです。主は弟子たちに「派遣 (21)」を語り、「息を吹きかける(22)」、これは「再創造(創造の古事は創世記)」の象徴です。しかし弟子たちは…。

この八日後(26)、再び滞在していた家に鍵をかけてこもっているのです。そこに、八日前に居なかったトマスも加わっています。加入したトマスの恐れが他の10人に移った、主の派遣の言葉以上にトマスが持ち込んだ恐れが大きかった、主の福音と派遣を受けた人間であっても、周囲の状況に流されてしまうのです。これは「人間の弱さ」と、「周囲の状況に流されること」を告げます。されど主は、繰り返し現れて下さいます。

聖書は「強くあれ」というような「人間性の刷新」を語ることはないと思う。むしろ、「強い方の同伴」という、「人間の思いの刷新」を語るのです。誰もが今回の出来事の「過越」を願っています。最前線でお働き下さる方の上に導きをも祈ります。そして私たち。「強い方」が共にあるので、何をしても良いということではありません。全てを導かれる「強い主(461)」「血を流された神の小羊」が、この出来事に直面する全ての方を導くことを思い、託されている働きを、日々行う。そのようなシオン教会の群れでありたい。


2020年4月15日水曜日

4/11.12 礼拝堂とお知らせ

  雨の日曜日となりました。花冷えの日曜日、裏の小学校の桜が
 散っていきます。「散る桜」に何か悲しみを覚えます。
  4/12 の徳山礼拝堂です。
4/12 の防府礼拝堂です。

 シオン教会(柳井、徳山、防府、六日市)では、5/6まで
 「礼拝の公開を中止」する措置を取っています。
 これは、「礼拝堂にて、一同に会する礼拝は中止」し、
 皆さまには「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝を守って頂くということです。

 慣れ親しんだ礼拝堂で、親しい方々と会することが出来ないことは
 まことに辛いものです。しかし今、感染症対策の最前線に居られる方々に、
 一層の負担を掛けないためにも、自宅において祈りを捧げることを
 大切と思い、この決断にいたりました。

 「ご自宅ないしそれぞれの場所」で礼拝をおこなうための「手引き」は、
 教会員各位には今週末に届くよう、手はずを整えています。
 またご希望の方には同様のものをお送りいたします。ご連絡ください。

 感染症対策にあたっておられる方々、
 ライフライン保持のために働かれている方々、
 介護職、教育関係職、為政の現場に居られる方々、
  お一人おひとりの働きを覚え、祈ります。

 イースター礼拝の説教要約は下記の通りです。


マタイ福音書281-10
「先が見通せない絶望」「見えない恐怖への恐れ」何もこれは、今年の私たちを取り巻く状況だけでありません。二千年前の、主の女性たちや主の弟子たちも、十字架以後に抱えていた心情でありました。「自分(たち)はこれからどうなるのか」「(官憲/ウィルスの)手がいつ迫るのか」その恐れの心情は、今まさにどなたもが抱かれていることでしょう。その状況下で、主が復活なさり、弟子たちの真ん中に立たれる(ヨハネ伝)のです。

日課は、女性たちが主の墓もうでに来たことによって始まります。言うまでもなく、復活信仰はありません。主のお体の保全のために来たと察します。しかしそこに、主の十字架時にも起きた「地震」が起きるのです(2751)。福音書の脈絡では、「死者の復活」を告げる、神さまの介入のしるしとなります。その地震は封印の大石を転がし、番兵たちを恐れさせるものでした。降下した天使は主の復活を告げ、女性たちは弟子たちに告げるために帰ります。

そこに復活の主が現れ「おはよう」と告げるのです。そして主は女性たちに、弟子たちへの伝言を託します。この伝言の内容は、先に降下した天使と重なるところがあります。鍵は「ガリラヤ」。天使は主が「ガリラヤに赴く(7)」と告げ、主も女性たちに「ガリラヤに行け(10)と告げよ」と言います。主と弟子たちとが始めに出会った場所、そこから歩みをもう一度始めようということです。そして過越祭終了後の「ガリラヤ帰還」は、実は他の参拝客に紛れるという意味で安全ということへの、主の弟子たちへの配慮となるのです。

ところで「おはよう」これは「喜びなさい」が原語の表現です。「喜ぶ」ための根拠は、主ご自身の復活です。それを目の当たりにしたから、女性たちは「彼女たちの表現で喜んだ(9)」のです。「根拠のある喜び」です。今日、「不安の根拠」ばかりが示され、煽られ、不審な噂が飛び交う日常です。その中で私たちはみ言葉に聞く。ガリラヤに帰った弟子たちが主に聞いた言葉を、この週は大切に持ち帰りたいと思うのです。すなわち、「世の終わりまで共に居る(2820)」。復活の主とこのみ言葉を、いのちの根拠としたい。