2019年4月30日火曜日

4/28 ボタンと礼拝





本日の写真は柳井Cのボタン。見事に咲いています。
集会室入口のところです。

今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。





礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。
急な変更を心よりお詫びいたします。

5/4 土曜日 15時 柳井C礼拝

5/5 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝 

5/8 火曜日 11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究
5/9 水曜日  19時 六日市礼拝 

5/11 土曜日 15時半 柳井C礼拝

5/12 日曜日  10時45分 徳山C礼拝
        15時半       防府C礼拝   



いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ2413-35
 「途上にある」それは私たちの姿です。「今日一日」の途上、「今月」という途上、「今年度」という途上。或いは「仕事」「再会」「和解」「癒し」究極的には「人生」という途上にある私たちです。「エマオへの途上」にある二人の弟子がいました。クレオパともう一人。妻だったのかもしれません。彼らは恐らく、過越祭を終えて帰参する他の参拝客に紛れる意図で、エルサレムを脱出したと思われます。殺害された主が復活するという知らせは忘却の彼方、だがそのご遺体がないという知らせに顔を曇らせながら道を行くのです。

 暗い顔をして歩む二人の弟子の姿、それはまた私たちの姿でもあります。主が共に歩いて下さる事以上に、目前の出来事に心を満たしていたのです。二人の弟子は、共に歩かれる主には気付きません。自分たちの見聞したことを、つまり自身の現状を申し述べるのみなのです。そこには主への誤解も含まれる「主はイスラエルの解放者」と。けれど主はそんな二人の言葉を聞いた後、叱責をしますが、「み言葉の解き明かし」を為すのです。後々彼らはこのことを思い起こし「私たちの心は燃えていたではないか」と言う。

 共に歩む主が二人の弟子に語り、弟子たちの心を燃やしたみ言葉はそれでは何か。明言は出来ません。しかし「苦しみを受ける神の姿」はイザヤ書にありますし、(人間の背信と自堕落によって)悩み、苦しむ神の姿は随所にあります。悩み、苦しみつつも人々を導く神の姿を聞くことにより、自身への導きへの確信を二人の弟子は抱いたのかもしれません。しかし、語るお方が主だと気付いたのは「パン割き」の出来事によってなのです。

 主の復活を確信した二人は、エルサレムに取って返し、復活の出来事を他の弟子たちに共有します。この「エマオ物語」は、「私たちの礼拝の姿」にも重なります。「暗い顔」をしている私たちに、主が語り掛けて下さる。(現行では月に一度ですが)「聖さん」を頂き、主が共にある「愛さん」茶菓の交わりを頂く。そして私たちは個々に遣わされる。私たちの目には、二人の弟子と同様に主の姿が「見えない」のですが、共に居て下さいます。
 

2019年4月22日月曜日

4/21 イースター

礼拝堂入口に、看板が付けられました。
 ①ちょうど空欄になっていたスペースにあう形で木が用意され
 ②別の教会員が墨書で看板文字を記入。
 ③合作が先週、取り付けられました。
  道路に面した既存の看板内部にも、新調のものが入れられました。
  今朝の礼拝堂です。
イースター、おめでとうございます。
 昨日から一転、静かな礼拝堂です。

 先週は「山陽」のシオン教会合同礼拝となりました。
 柳井から10名、防府から3名の方が集われ、賑やかな礼拝となりました。

 今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。

4/22 月曜日 10時半 西中国地区牧師会 於:徳山
4/23 火曜日 11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究
4/27 土曜日 10時 牧師 柳井行き
        19時 六日市礼拝 
4/28 日曜日   10時30分 柳井教会礼拝
        10時45分 徳山教会礼拝
        15時半       防府教会礼拝   


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ24112
 主の言葉を信じる者は誰もいなかった。それが世界で初めのイースターでした。信じる心ではなく、主を懐かしむ気持ちの中で、ご婦人たちが主の墓参りに出かけます。「懐かしむ」ということの根拠は「その手にある香油」でした。凄惨な主の十字架を目の当たりにしたご婦人たちは、すぐに香油を購入しました。墓に納められた主の体とその傷から、腐敗臭が出るのを防ぐためです。しかし、墓の墓石はどうすれば良いのか、居るとしたら番兵をどう交わすのか。理性や論理でなく、一心がこの時の婦人たちの心にあり、「主を守る」その一心が婦人たちを動かしたのです。

 しかし墓に封印の石はなく、番兵も居らず、主の体も無かった…。後に婦人たちが「天使だった」と証言する「二人の人」が墓の内部にいるのです。語ることは「主の言葉を思い出せ」と。この「思い出す(思い起こす)」ということは、旧約聖書の昔から受け継がれている考えの一つです。例えば申命記では、「荒野からの救出を思い出せ」。レビ記2642では「昔の約束を思い起こす」。具体的には、主の受難と復活のみ言葉を思い起こすことです。しかし使徒たちと称される弟子たちは「たわ言」と決めつけ、婦人たちの言うことを信じません。使徒たちの気持ちは分かる。

 使徒たちも婦人たちも、「主が死なれた」と言う目前の大きすぎる事実に、過去に主が言われたみ言葉が吹き飛んでしまったのです。「み言葉どころではない」心境です。しかしペトロは一人だけ「墓へ走る」のです。墓へ走るとは余程のことが起きた場合ですね。しかし墓には誰もいない。ペトロは「驚く」のですが、実は「驚く」とは「疑う」という意味の言葉でもあります。この日課で総合的に言われているのは、人は周囲の状況に流れ、加護を忘れるという永遠のテーマです。

 人はそのように不信と信仰、確かさと不確かさの間を揺れ動くものです。しかし主はその人に絶えず関わり続けて下さるのです。主に励まされた弟子たちは、やがて主の復活に新たな意味を付加しました。主は死者の初穂(1コリ15)。主とは形は違う様態ですが、私たちも復活することが約束された者なのです。しかし今なお私たちには多くの役目があります。ペトロの如く、婦人たちのように倒れ、打ちひしがれることがある。そこでこそ主からの恵みを「思い出」したい。
 

2019年4月14日日曜日

4/14 礼拝と看板と来週の用意

  看板の墨書が教会員によってなされました。楽しみです。
  集会室は来週に備えて、教会員の方が整えて下さいました。
本日の礼拝堂です。「受難主日」として礼拝を守りました。
 今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。

4/16 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究
 
4/20 土曜日 14時 益田祈祷会
       19時 六日市礼拝 

4/21 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ225462
 ルターの働きの一つに「職業召命観」の確定ということがあります。ルターの時代としては斬新だったのですが、この世のどのような働きでも神さまが与えて下さった使命と考えたのです。今日は過酷な労働環境は一つの問題となっていますから、全てに「神さまの召し」という概念を当てはめることは困難です。では、生活の現場で立ち止まり、先に進めない時にはどうするのか。それは今日の聖書のペトロの姿にも表れています。

 聖書は「ペトロの三度の否定」有名な箇所です。以前に主は「あなたは三度、私を知らないというだろう」とペトロに言われました。その際「そんなことはありません」と断言するのです。しかし実際の姿は今日の聖書の通りです。実はこの「三度の否定」にはそれぞれに意味があります。一度目は「主との関りの否定」、二度目は「仲間との関りの否定」、三度目は「自身の存在の否定」ということです。そうまでしてもペトロは、我が身を助けたいと思ったのです。人は、強くはない。主という支えを欠いたペトロの弱い姿です。

 私たちは、時に周囲や自身の状況に絶望、失望することがあります。鶏鳴を聞いたペトロの心中も、まさにそのような状況と察します。けれどそのようなペトロに主がかつてこう告げたことは大切です。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(2232)」と。先立つ主の言葉をかみしめながら、ペトロは主の十字架の知らせを聞いたのでしょう。主のみ言葉が先立ち、それを踏まえながら悔い改めの中に生きる。ペトロはそのような十字架の時を過ごす者だったのです。復活の朝のことは来週、み言葉が語ります。

 諸事に遭う時には、立ち直れないことがあります。ここまでの事を言ってのけたペトロも深い落ち込みにはまったことでしょう。しかし「立ち直る」ことが出来る。それは一人での再起ではありません。ペトロも、私たちのことも全てご存じの主と共に立ち上がるのです。あるいは、立ち上がるための備えを為すことも大事かもしれません。そして「近しい人を力づける」働きに招かれている。その主のみ言葉に生きる群れでありたい。