2019年10月3日木曜日

9/26.27 礼拝 と台風

  9/22に山陰沖を通った台風は山口県にも被害をもたらしました。
  柳井教会の屋根が一部破損。
  台風被害ですので、保険で対応しようと計画中です。
こちらは防府の礼拝堂。

 会議準備や出張などで、更新が随分と滞りました。 


今週、来週の予定は下記の通りです。

10/4 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
10/5 土曜日 15時 柳井C礼拝

10/6 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝
 
10/9 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 1619-31
 「(さまざまな)格差ゆえの苦しみ」「病からの不安」「自己責任論」…。どれを取っても一言で語りつくせず、また現実に私たちが祈りつつ、嘆きつつ、その一つひとつを引き受け、覚えている事柄かと思います。聖書という書物は、主のお言葉と行いを通して上記の個々の出来事に明確に答えています。ところが今日の聖書の流れの中で、「因果応報」「自己責任」とも取られる話が為されています。ここから私たちは何を汲めば良いのか。

 結論から言えば、この個所は「金に執着するファリサイ派(1614)」に続く教え、主が語る対象は「ファリサイ(分離、区別)派」ということを踏まえたい。話は金持ちの豪遊から始まります。紫の衣や柔らかい麻の布(19)は、言うまでもなく富者の象徴。この金持ちの門前にラザロが「横たわる(20)」。「置かれていた」のです。誰かがラザロをここに置き、金持ちもそれを赦す。この金持ちは少なくともラザロを見知って(24)いたのです。

 ラザロも金持ちも死に、場面は天の宴席と陰府へと移行します。宴席に連なるラザロを見た陰府の金持ちは、助けを求めます。「お前は良いものを貰っていたから、もだえ苦しむ(25)」。生前とは逆の立ち位置になることが告げられ、「そればかりか(26)」→「それ以上に」大きな淵について言われるのです。金持ちもそして聞き手であるファリサイ派の人々が置いていた「淵」は越えられないと言われます。今、ファリサイ派が築いている「他者との淵」「徴税人/罪人との淵」をこそ、主が問題と見做しているという話なのです。

 「今、み言葉に耳を傾けよ(31)」「今、旧(ふる)くからの言葉に耳を傾けよ(29)」それを主は、厳しい形で伝えるのです。そして一方で主は、何も持たずに病みつつ嘆く人に「ラザロ(神が助けて下さる)」と名付ける。この名付け方一つとっても、主のお気持ちを汲むことが出来るのです。巷には変わらず「自己責任」が満ち、生きる私たちには苦しみ悩みは尽きません。かつてと今のその人々を主は「ラザロ」と呼ぶ。あなたもラザロなのです。