3/3(火)朝の徳山礼拝所。
昨晩は「春の嵐」でした。
今朝も小雨で曇り空。けれど礼拝堂は今朝も光の中にあります。
聖餐式が行われました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
3/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。
3/7 土曜日 14時半 関係者の記念会
15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
3/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
3/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/1(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
四旬節第2主日 説教
ヨハネ福音書3章1節-12節 「明けの光の中で」
水原一郎
① 今日の福音書には、ニコデモという人が登場します。ユダヤの指導者の一人で、「ファリサイ派の教師」でした。このニコデモが、夜の闇に紛れて、そっと主イエスを訪ねました。先立つヨハネ福音書2章で、すでに主イエスは神殿で商人たちを追い出し、大きな波紋を広げていた時期でした。ニコデモは、主イエスの行動に危うさを感じる反面、心の奥底では主イエスに惹かれるものがありました。だから夜を選び主イエスを訪ね、言います。「神が共にいなければ、あなたのなさるしるしは行えない」と。この言葉は、表向きの挨拶ではなく、心の葛藤に揺れる者の精一杯の問いかけでした。
② 主イエスは答えます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ここで「新たに」として使われている言葉は、実は「再び」とも「上から」とも読める言葉です。ニコデモはこれを「再び」と受け取り、「年老いた者がどうして母の胎に戻れるでしょうか」と問い返します。しかし主イエスが語られたのは、「上から」の誕生でした。人間として、赤子に帰ってやり直すことではありません。年齢を重ねても、神さまと共に始まる新しい命です。それは「水と霊によって」生まれる命。預言者エゼキエルが語った、神が清い水を注ぎ、新しい心と霊を与える、その約束の成就です。ここで求められているのは努力ではなく、神さまが自分の命に共にあるという、起源の変換です。
③ 主イエスは続けて語ります。「風は思いのままに吹く。どこから来て、どこへ行くのか、あなたは知らない。霊から生まれる者も、皆そのようだ。」神の働きは、私たちの理屈や計算を遥かに超えています。私たちはどうしても、目に見えるしるし、はっきりした答えを求めます。議員であるニコデモにとっては、祭儀を行うことや律法に基づいた生活を送り、他者に教えることこそが、そうした「確かさ」でした。しかし、神の救いは風のように自由です。人間の計画を超え、静かに、思いがけない場所で働き始めます。
④ 主イエスはニコデモに厳しく問います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」これは、ニコデモの信仰の根を揺さぶる問いでした。そして主イエスは続けます。「人の子は上げられなければならない。」それは十字架を指し示す言葉です。新しく生まれるとは、単なる内面の変化ではありません。十字架に上げられるキリストを見上げること。自分の理解や積み重ねが通用しない場所で、ただ神の愛を受け取ることです。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。」この愛は、十字架というかたちをとります。ニコデモはこの夜、その意味をまだ知らされてはいませんでした。彼は問いの中に立たされただけです。
⑤ ニコデモはこの後、長い夜を迎えます。ヨハネ福音書では、7章で彼は慎重ながらも主イエスのために発言し、19章では、十字架の後、葬りのために香料を携えて現れます。彼が理解し、恐れを脱したのか、語られていません。ただ確かなのは、十字架のもとに彼が立っていたという事実です。始まりは夜でした。しかし物語の頂点は、十字架の夕暮れです。四旬節を歩む私たちもまた、身近なこと、近しいことの意味を十分に理解できないまま、明日へと導かれます。神の愛は、私たちの理解を待ってから働くのではありません。むしろ、闇のただ中に十字架を立て、そこから新しい命を始められます。夜がすぐに朝に変わるとは限りません。しかし、夜でも十字架の主を仰ぐのです。私たちは理解が不十分でも、既に神から始まる命の中に置かれています。

