本日の写真は柳井Cのボタン。見事に咲いています。
集会室入口のところです。
今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。
礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。
急な変更を心よりお詫びいたします。
5/4 土曜日 15時 柳井C礼拝
5/5 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
5/8 火曜日 11時 牧師 柳井行き
15時 徳山聖書研究
5/9 水曜日 19時 六日市礼拝
5/11 土曜日 15時半 柳井C礼拝
5/12 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ24章13-35節】
「途上にある」それは私たちの姿です。「今日一日」の途上、「今月」という途上、「今年度」という途上。或いは「仕事」「再会」「和解」「癒し」究極的には「人生」という途上にある私たちです。「エマオへの途上」にある二人の弟子がいました。クレオパともう一人。妻だったのかもしれません。彼らは恐らく、過越祭を終えて帰参する他の参拝客に紛れる意図で、エルサレムを脱出したと思われます。殺害された主が復活するという知らせは忘却の彼方、だがそのご遺体がないという知らせに顔を曇らせながら道を行くのです。
暗い顔をして歩む二人の弟子の姿、それはまた私たちの姿でもあります。主が共に歩いて下さる事以上に、目前の出来事に心を満たしていたのです。二人の弟子は、共に歩かれる主には気付きません。自分たちの見聞したことを、つまり自身の現状を申し述べるのみなのです。そこには主への誤解も含まれる「主はイスラエルの解放者」と。けれど主はそんな二人の言葉を聞いた後、叱責をしますが、「み言葉の解き明かし」を為すのです。後々彼らはこのことを思い起こし「私たちの心は燃えていたではないか」と言う。
共に歩む主が二人の弟子に語り、弟子たちの心を燃やしたみ言葉はそれでは何か。明言は出来ません。しかし「苦しみを受ける神の姿」はイザヤ書にありますし、(人間の背信と自堕落によって)悩み、苦しむ神の姿は随所にあります。悩み、苦しみつつも人々を導く神の姿を聞くことにより、自身への導きへの確信を二人の弟子は抱いたのかもしれません。しかし、語るお方が主だと気付いたのは「パン割き」の出来事によってなのです。
主の復活を確信した二人は、エルサレムに取って返し、復活の出来事を他の弟子たちに共有します。この「エマオ物語」は、「私たちの礼拝の姿」にも重なります。「暗い顔」をしている私たちに、主が語り掛けて下さる。(現行では月に一度ですが)「聖さん」を頂き、主が共にある「愛さん」茶菓の交わりを頂く。そして私たちは個々に遣わされる。私たちの目には、二人の弟子と同様に主の姿が「見えない」のですが、共に居て下さいます。