①ちょうど空欄になっていたスペースにあう形で木が用意され
②別の教会員が墨書で看板文字を記入。
③合作が先週、取り付けられました。
道路に面した既存の看板内部にも、新調のものが入れられました。
今朝の礼拝堂です。
イースター、おめでとうございます。
昨日から一転、静かな礼拝堂です。
先週は「山陽」のシオン教会合同礼拝となりました。
柳井から10名、防府から3名の方が集われ、賑やかな礼拝となりました。
今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。
4/22 月曜日 10時半 西中国地区牧師会 於:徳山
4/23 火曜日 11時 牧師 柳井行き
15時 徳山聖書研究
4/27 土曜日 10時 牧師 柳井行き
19時 六日市礼拝
4/28 日曜日 10時30分 柳井教会礼拝
10時45分 徳山教会礼拝
15時半 防府教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ24章1-12節】
主の言葉を信じる者は誰もいなかった。それが世界で初めのイースターでした。信じる心ではなく、主を懐かしむ気持ちの中で、ご婦人たちが主の墓参りに出かけます。「懐かしむ」ということの根拠は「その手にある香油」でした。凄惨な主の十字架を目の当たりにしたご婦人たちは、すぐに香油を購入しました。墓に納められた主の体とその傷から、腐敗臭が出るのを防ぐためです。しかし、墓の墓石はどうすれば良いのか、居るとしたら番兵をどう交わすのか。理性や論理でなく、一心がこの時の婦人たちの心にあり、「主を守る」その一心が婦人たちを動かしたのです。
しかし墓に封印の石はなく、番兵も居らず、主の体も無かった…。後に婦人たちが「天使だった」と証言する「二人の人」が墓の内部にいるのです。語ることは「主の言葉を思い出せ」と。この「思い出す(思い起こす)」ということは、旧約聖書の昔から受け継がれている考えの一つです。例えば申命記では、「荒野からの救出を思い出せ」。レビ記26:42では「昔の約束を思い起こす」。具体的には、主の受難と復活のみ言葉を思い起こすことです。しかし使徒たちと称される弟子たちは「たわ言」と決めつけ、婦人たちの言うことを信じません。使徒たちの気持ちは分かる。
使徒たちも婦人たちも、「主が死なれた」と言う目前の大きすぎる事実に、過去に主が言われたみ言葉が吹き飛んでしまったのです。「み言葉どころではない」心境です。しかしペトロは一人だけ「墓へ走る」のです。墓へ走るとは余程のことが起きた場合ですね。しかし墓には誰もいない。ペトロは「驚く」のですが、実は「驚く」とは「疑う」という意味の言葉でもあります。この日課で総合的に言われているのは、人は周囲の状況に流れ、加護を忘れるという永遠のテーマです。
人はそのように不信と信仰、確かさと不確かさの間を揺れ動くものです。しかし主はその人に絶えず関わり続けて下さるのです。主に励まされた弟子たちは、やがて主の復活に新たな意味を付加しました。主は死者の初穂(1コリ15章)。主とは形は違う様態ですが、私たちも復活することが約束された者なのです。しかし今なお私たちには多くの役目があります。ペトロの如く、婦人たちのように倒れ、打ちひしがれることがある。そこでこそ主からの恵みを「思い出」したい。