こちらは、5/9の防府教会の礼拝堂。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
5/16 日曜日 10時 徳山C聖書の学び
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ ヨハネによる福音書 15章9~17節 (新共同訳聖書、新約198ページ)
■ 説教 「いつくしみ深い神さま」
主イエスは、「ぶどう」に続き「友」という言葉を用いて弟子たちに「つながり」を語ります。ユダヤの人々に馴染み深い旧約物語には、対照的な二つの「友人関係」が登場します。「ダビデとヨナタン」は「サムエル記」等、「ヨブと三人の友人」は「ヨブ記」。前者は共栄、協和的な関係性が特徴。後者は「友人」がヨブに、押し付けや独善的な関わりの姿が見えてきます。主がこの話の中で弟子たち、つまり私たちに伝えようとすることは何でしょうか。
主の「私はあなた方を友と呼ぶ」との言葉は、弟子たちへの「ダビデとヨナタン」の前例に似ている勧めと察します。この前例の特徴は「窮地を助ける」ことです。ダビデの窮地をヨナタンは助け(サム上20)、後年ヨナタン戦死後、彼の血筋を探し保護したのがダビデでした(サム下9)。主がこの時見られていた弟子たちの状況はまさに「窮地」でした。そこに「互いを愛する」という相互の支え合いが、個々の窮地を脱せる要点であると語られます。
「互いに愛し合う」ことは「命令」と主は言われます。言葉だけでは「思いの押し付け」で、ヨブへの「三人の友人」の様相かもしれません。しかし主はこの「命令」以前に大切なことを言われていました。それが「ぶどうの木と枝」との「つながり」です。ぶどうの果実が一朝一夕では実らないように、み言葉の結実に時が必要です。でも、確実に弟子たちにその愛が、栄養が注がれていた。その実感に立ちうるときに、他者への支えが生まれるのです。
ところで「私があなた方を選んだ」弟子たちの中には、退出したユダ、空元気のペトロ、そして心を騒がせる(14:1)弟子たちがいました。堅固ではなく、頼りない信仰の弟子たちです。主は、その弟子たちを選び、同じく弱く、不十分な人々の隣人として生きることを求められたのです。讃美歌「慈しみ深き」は、人生において多くの苦難を体感した青年の作詞です。「主が友である」「主が協和される」ことを支えにし、日々を過ごしていきましょう。