4/25 防府礼拝の前に撮ったさくらんぼの木。
教会の裏手にあります。おすそわけを頂きました。
鳥よりも早く摘んでいる人々がいます。
今週、来週の予定は以下の通りです。
どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。
5/2 日曜日 10時 徳山C聖書の学び
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ ヨハネによる福音書 10章11~18節 (新共同訳聖書、新約186ページ)
■ 説教 「囲われる羊、囲う神」
聖書の中には、様々な職業が登場いたします。「羊飼い」は、牧畜文化にあった聖書時代に、なじみ深い職種でした。羊飼いたちにとって羊たちが「無事に成長」することは喜ばしく、一方で労働環境は「昼は猛暑、夜は極寒(いずれも創世記31)」でした。ルカ福音2章の羊飼いたちも「夜通し」の働きに就いていました。羊飼いとはそういう環境で、羊たちを守るものでした。主イエスは今日、ご自身を「良い羊飼い」として話し始められるのです。
今日の話は、直前の9章「盲人の癒し」が前提になります。安息日に、ある盲人が主に癒されました。当時の宗教者は、「安息日に主が働いた」ことを問題視し、この人を「取り込み」、主を貶める発言を引き出そうとします。ところがこの人が拒むと一転、「町から追い出す」のです。「羊飼い」であった宗教者はしかし、自己都合の中で羊(「登場する盲人」)を振り回します。一連のこの出来事をご覧になった主は、「真の羊飼い」の話をなさいます。
16節から主は、「囲いの外の羊」にも言及されます。これは何か。「群れを離れざるを得ない」「迷う」「傷ついて戻れない」「囲いを越えられない」等と理解できます。これらの人々は皆、当時の宗教者が(結果的に)作り出し、主が引き受けられた方々でした。主がその「囲いの外」をも導くことに信頼をしたい。今、礼拝に集う私たちは「囲いの外の人々」を覚えています。主の愛の眼差しは、囲いの外にいる「私たちや近しい者」にも向かうのです。
今日の聖書で主は「羊のために命を捨てる(11.15.17.18)」と、何度も明言されます。事実、宗教者から排斥された人々と関わることは、主のお立場を危うくさせるものでした。しかし羊飼いが厳しい環境「猛暑、極寒」を厭わなかったように、主はご自身への厳しい眼差しを受止め、やがて十字架へと赴かれるのです。生も労動も「苦楽」を伴います。その渦中に生きる私たち、時に耐えざるを得ないとき、そこにも主イエスが共におられます。