2025年2月25日火曜日

2/22.23 柳井、防府の梅、徳山の朝

 

 2/25(火)朝の徳山礼拝所。

 だいぶ、夜明けも早くなりました。

 2/23(日)午後の防府礼拝所。

 背景は、道路沿いの看板。ここに柳井の方が毎週、説教題を記載してくださいます。

 2/22(土)柳井礼拝所。

 左手にも、教会員の方からのお花がささげられています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

2/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 水曜日となりました。 

3/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

3/5 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

 ルカ6:2736 (113)

 説教             「ありがとうに花束を」 

    聖書は「敵」の扱いを、三つ示します。1つ目「やりかえす」。レビ24:19「復讐の連鎖を実力で断つ」との意味です。2つ目「関わらない」。詩編941「報復の神に任せる」ということです。3つ目が今日の「愛する」。レビ19:18「隣人愛」が原典です(マタイ5:43)。

 

    「隣人愛」はともかく、「敵への愛」は「無理」といえます。今年の「世界祈祷日」で、「壁に直面」された方の証しが式文にありました。「伝統言語、マオリ語の廃棄」を強制された方が「その侮辱は忘れられない」と言います。主がなぜ「敵への愛」を語ったのでしょうか。

 

    これは「弟子たち(6:20)」への言葉です。弟子たちも「敵」を「憎み続ける」「やりかえす」「神の報復」を求めることを自然でした。主は、この当時は主のみが可能な「敵を愛する」姿を、十字架の上で全ての人に示します。「復讐の連鎖」を、「愛で断つ」思いです。

 

    さて、私たちが挑戦できることがあります。主はここで「恩知らず(5)」という言葉を用います。これは「感謝しない」という意味です。身近な「敵」と、その思いは、心を行き詰まらせます。私たちはせめて、関わりを持たず、出来る「感謝」ありがとうを持ちたいと思います。


2025年2月19日水曜日

2/15.16 防府、徳山

 

 2/23(日)徳山礼拝の説教題は、「ありがとうに花束を」

 1か月前の自分のテンションが、正直思い出せない説教題となっています。

 2/23(日)防府の梅。あと一歩!

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

2/18 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。 

2/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ6:17a,2026 (112)

 説教                「負の現実で神は働く」 

   「山上 (マタイ5)」で教えた主イエスは、「平地(17節)」におられたとルカは記します。主は人々と「同じ目線」の意図を示すのです。ルカ福音書のこれまでの「地に平和」「鳩のような聖霊」は「人と共にある神の姿」を示すものでした。「平地の説教」も同様です。

 

   さて「貧、飢、泣く、迫害」は、なぜ起こるのでしょうか。「社会の構造」の根幹には、宗教の原始的な理解がありました。ヨブ記で「友人(ヨブ8)」は、それらの「困難」を「神の祝福の欠如」と結論付けます。主の時代にも残っていたその原始的な理解に、主は向かいます。

 

   このような「祝福の欠如」からの回復には「罪の告白、贖い」が必要でした。「神に近づき、許しを得る」のです。しかし主は「回復しえない人々」に「祝福を告知」されました。「主が近づき、共に交わる」のです。「同じ位置での活動」を、平地で弟子たちに示すのです。

 

   「負の現状は、“不信仰”由来か」という考えは、古くて新しい教えです。少なくとも主が導かれた教えは、そのような「因果応報」を排除します。弟子たちも、やがて「苦しみを喜ぶ(1ペトロ413)」という観点に変えられるのです。今の現状に、主が共におられます。




2025年2月13日木曜日

雪化粧、たぶんウサギだるま、朝の徳山、防府の梅

 2/9(土)朝の徳山礼拝堂の外。路面はバリバリでしたが、11時過ぎには無事に溶けて柳井へ行くことができました。
 2/9(土)柳井に行く直前の製作。たぶん、うさぎでしょう。鬼かな?
 こちらは朝の徳山礼拝堂。
 すこし紅くなってきました、防府の梅。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

2/11 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。 

2/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/18 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

2/22 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ5: 111 (109)

 説教            「実らない努力も大切?」 

    努力しても結果が出ないことがあります。この日の聖書では、漁師たちが「実らない努力」を思い「網を洗う」のです。主はそのような「人間の現実」に入られます。これが、マタイ、マルコの「弟子入り」と異なる所です。人が直面する現実に、主もまた立たれるのです。

 

    時は朝、人々が主を囲み、「仕事探し」を脇に置いて話に耳を傾けています。ところが漁師たちは主に興味なく、「徒労の後始末」をします(2)。漁師たちは、伝道の助けはします。「姑の癒しの感謝」でしょうか。しかし「沖で網を降ろしなさい」の言葉に、難色を示します。

 

   「先生」とは「律法の教師」という意味です。漁師たちは、主は教師、自分たちは漁師と分け、労苦を示します。「夜通しの苦労(5)」を述べた後、船を出します。すると大漁の出来事の後、漁師たちは「主よ」と、主イエスの呼び方を変えます。そして弟子になるのです。

 

   神さまは常に働く方です。そこに気づくのは、波がある「現実」の中で「不調」の時が多いと語るのがこの聖書です。「ゲネサレト」という湖はガリラヤ湖の旧名で、こちらも為政者の変化と共に名称が変えられました。変わりゆく出来事の中、変わらない主を覚えたい。



 

2025年2月4日火曜日

2/1.2.4 六日市の雪道、柳井、防府、徳山

 

 2/4(火)六日市の教会員から教えて頂いた「アイ・キャン」の「錦町県境」

 ライブ配信画像です。2/4(火)10:47現在、良く通る「山賊」という

飲食店の上(かみ)がこのような状況になっています。自然の前には、無力なことを思います。今日の礼拝も、家庭礼拝となりました。

 2/2(日)防府の礼拝堂。手前の紅梅のつぼみがだんだん膨らんでいます。
 2/2(日)朝の徳山礼拝堂。
 2/1(土)柳井礼拝前の様子。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

2/4 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。 

2/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/11 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

2/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

ルカ4:2130 (108)

 説教            「あなたの道は寂しくない」 

    ナザレ村での「安息日」礼拝は、「主の十字架を予見する」結末となりました。「集団の激情」が、主の命を奪う手前だったのです。なぜこの結末に至ったのでしょうか。「集団の激情」は、決して特別ではない人間社会の現実を踏まえ、み言葉を読みたいと思います。

 

ナザレ村を、ルカ福音書は「法令順守」をしない「領主(3:1)」統治下と記します。主は、安息日のナザレの人々のもとに「評判 (4:14)」と共に訪れました。しかし主はイザヤ61章を「報復」まで朗読しませんでした。神の報復よりも「身近な支え」を行う意図でした。

 

評価は「賞賛」と「驚き(22)」でした。「身近な支え」は「賞賛」されたでしょう。 ただ「ヨセフの子(22)」は何か。諸地域を巡る大工の父のように、村に腰を据えない「親子」と揶揄するのです。主は「異邦人対応」の旧約を引用し、多くの民族を見守る神を騙ります。

 

ナザレの人々を一方的な「悪」とは決めません。「特定の民族、自身の村、神の報復」という「従来の形」の信仰だったからです。むしろ主は、特定の人々を重視せず、身近な所での関わりを率先されました。主は「人々の間を通り抜け(30)」、あなたの横におられます。