2025年7月27日日曜日

7/23.7/27 六日市と徳山

 

 7/27(日)朝の徳山の礼拝所です。

 この日は朝5時くらいから、近隣の中学校、吹奏学部が「朝練」をしていました。

 「マードックからの最後の手紙」を堪能できました。


 7/23(水)六日市礼拝後に撮った一枚です。

 季節は大夏です。柿はまだ青く、小春日和を勘違いしたコスモスが咲いていました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

8/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 8

8/6 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/27(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第7主日 説教 

ルカ福音書11章1節-4節 「祈りを教えて下さい。」

水原一郎

①  ある日、イエスさまは静かに祈っていました。その姿をじっと見つめていた弟子が、思わず声をかけます。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」この言葉に、私は心を打たれます。弟子たちは、祈ることが何であるか、どう祈ればよいのか、確信がなかったのでしょう。祈りに、不安を感じていたのです。


② 祈りとは、本来自然にあふれてくるものだ。私たちは、そう思うかもしれません。けれど弟子たちは気づいていたのです。「自然にあふれ出る祈りの中身は、自分たちのことばかり」と。自分たちの祈りには、隣人への配慮、愛が足りない、のかもしれないと。だからこそ、彼らは願いました。「主よ、祈りを、教えてください」と。イエスさまは、その願いに応えられました。このことが教えているのは、祈りとは、自分でつくるものであると同時に、神から“教えられる”ものだということです。


③ 主が弟子たちに与えた祈り――それが、私たちが今も共に祈っている「主の祈り」です。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように…」この祈りの始まりは、私たちの願いではなく、神さまへの賛美です。「こうなりますように」「あれが叶いますように」――そう願うこと自体が悪いわけではありません。けれど主の祈りは、まず神さまを見上げるところから始まるのです。


④ 最初に祈られるのは、「御名が崇められますように」。それはこういう意味です。「神さまの名が、この世界の人々の心の中で、大切にされますように」。けれど現実にはそう感じられないこともあります。戦争や飢え。争いや自然災害。神さまの名が軽んじられているかのように見える現実があります。でも、私たちは祈るのです。この世界のただなかに、神のご支配が、平和と正義と憐れみが、訪れますように――と。「御国が来ますように」も同じ祈りです。神さまの望まれる世界が、遠い天上ではなく、この地上にもたらされますように。その世界の一員である私にも、あなたにも、その恵みが届きますように。そのあとに、こう続きます。「私たちの日ごとの糧をお与えください」「私たちの罪をお赦しください」神さまは、私たちの必要にも、しっかり耳を傾けてくださる方です。私たちが生きる日々の、重さも、傷も、願いも、神さまはご存知です。


⑤ そしてこの祈りは、すべてが「私」ではなく「私たち」として祈られています。「私たちの日ごとの糧」「私たちの罪」。それは、祈りが共同の祈りだからです。信仰は、決してひとりきりのものではありません。自分のためだけでなく、隣人のために。召された人のために。この教会に集う人のために。名前も知らない誰かのために。祈りとは、神さまの前で私たちが、隣人との関わりをつなぎ直す営みなのです。


⑥ ときには、詩編のように、心の叫びを神さまにぶつける祈りもあります。怒り、不安、戸惑い、嘆き――自分の思いで祈ることも大切です。主の祈りは、そんな私たちの心を、そっと整えてくれます。神さまを崇めること。隣人を思い出すこと。自分の罪を思い起こし、悔い改めること。すべてが、この短い祈りの中に込められています。祈りとは、神に向かって心をひらくこと。そして、隣人に向かって心をひらくことです。主が私たちに与えてくださったこの祈りを、これからも共に祈りながら、日々を過ごしましょう。







2025年7月22日火曜日

7/19.20 柳井、徳山、防府

 

 7/22(火)先ほど撮った、徳山礼拝所となります。

 朝の光が礼拝堂に入り込んでいます。やや蒸しています。

 7/20(日)防府礼拝所。午後の礼拝堂で、西日は強烈に聖壇に降ってきます。
 7/19(土)柳井礼拝所。こちらも午後礼拝。

 これからしばらく、夏の暑さとの闘いの日々です。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/30 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

8/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

8/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/20(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第6主日 説教 

ルカ福音書1038-42節 「語るに遅く、聞くに早く」

水原一郎

   本日は、ルカ福音書1038節からのみ言葉をご一緒に味わいましょう。皆さんは、この「マルタとマリア」の場面を読むと、どちらに自分を重ねますか?落ち着いてイエス様の話を聞くマリアか。忙しなく働き続けるマルタか。当時、女性がこうした場に座って学ぶことは、簡単ではありませんでした。それでもマリアは、自分の身分や立場を超えて、ただまっすぐに主の言葉を求めたのです。



   マリアが、なぜそこまでしてみ言葉を聞こうとしていたのか? その理由や背景は、聖書には書かれていません。一方で、マルタの行動には、具体的な背景が見えてきます。今日の箇所は、ルカ福音書10章の流れにあります。10章冒頭では、主イエスが72人の弟子を任命して、町々に派遣されます。その弟子たちが戻ってきて、喜びの報告をする。直後に、「善きサマリア人」のたとえ話が語られます。そして今日の場面、「一行がある村に入った」と続くのです。


   そこに「一行」のヒントがあります。 主イエスと12人の弟子たち? 72人? いずれにせよ、10人以上の客が急にやって来たら、皆さんどうしますか?マルタは、それを一人で迎えたのです。飲み物に食事、部屋の準備。やることは山ほどあります。しかも、集まっているのは、30歳前後の男性たち。よく食べ、よく話す、元気な人々です。


   マルタは、自ら主イエス一行を迎え入れ、もてなしました。ふと気づくのです。「マリアがいない。私ひとりで?」そして主の話し声が聞こえてくる。「なぜ、あの子は聴くことばかり?」心の中で何かが弾けたように、マルタは主に訴えます。「主よ、私の妹が手伝わないのを、なんとも思われませんか?」


   私たちも、そんなふうに感じること、ありますよね? 家族や職場で一生懸命働いているとき。「なんで私ばっかり?」「誰もわかってくれない」と思う瞬間。マルタの「もてなし」は、聖書では「ディアコニア」と記されています。これは、仕える働き、ホコリをかぶるような働きのことです。だからマルタの姿は、「間違い」ではありません。むしろ、善きサマリア人のように、み言葉を「行い」で表現していたとも言えるのです。しかし問題は、その働き事態が目的となり、主との交わり、御言葉が見えなくなっていた――そこに、主は目を留められたのです。


    主は、そんなマルタにこう言われました。「マルタ、マルタ」と。これは叱っているのではなく、優しく呼びかけておられるのです。旧約聖書でも、「アブラハム、アブラハム」「サムエル、サムエル」と、神は大切な場面で、名を二度呼ばれます。主は、マルタのすべてを見ておられました。



   ここに、マリアの姿勢が大切なのです。主の足もとに座り、御言葉を受け取ること。そこに、正しい順序があります。み言葉に整えられてこそ、真のディアコニアは生まれるのです。私たちもまた、日々の忙しさの中で、まず主の言葉にとどまり、心を静める時間を大切にしましょう。その中から、人を生かす働きが生まれるのです。




2025年7月17日木曜日

7/11.12.13.14.16 会員召天、柳井、徳山、防府、そして「はちみつ太郎」

 

 7/16(水)の礼拝で、六日市の会員の方からいただいた銘菓「はちみつ太郎」

 どこかの「やめられないとまらない」が裾野に位置するように見える、絶品です。

 途中の道で開封の欲望に駆られましたが、駆るのは車だけにしておきました。

 7/16(水)会員を吉賀町に訪問しました。

 近隣の方なら、ここがどこの交差点か一目でわかるでしょう。

 ヒント、右中央。

 7/13(日)防府礼拝所の献花。

 花の鮮やかさとうらはらに、落ち着いた礼拝でした。

 7/13(日)徳山礼拝所の朝。7/11(金)にご召天になった方も、

 この日は一緒に主日礼拝に出席されました。

 ご召天者を囲む「夕べの祈り」は、7/12(土)19時、7/13(日)17時

 前夜式は7/13(日)18時半、告別式は7/14(月)11時に行われました。

 ご家族に天来の慰めを祈ります。

 7/12(土)柳井礼拝所。

 こちらにも、会員関係者の病床の知らせを受け、祈りました。

 7/10(木)防府礼拝所の玄関の梅。

 バリカンで刈りました。ついでに7/16(水)牧師の頭もバリカンで刈りました。

 刈ったり駆ったり、忙しい一週間でした。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/23 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第5主日 説教 

ルカ福音書1025-37節 「全部はできないけれど」

水原一郎

 本日は、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人」のたとえを通して、「隣人になる」とはどういうことか、主イエスの問いに耳を傾けたいと思います。単なる善行の勧めではありません。主は、人間の限界の中でどのように隣人に仕えるのかという、深い問いかけを私たちに投げかけておられます。


 このたとえは、一人の律法の専門家の問いかけから始まります。「永遠の命を得るには何をすべきか。」彼の問いには、律法を熟知した者の誇りがにじんでいます。けれども主イエスは、律法そのものではなく、その律法が求める「神への愛」「隣人への愛」を実際に行うように促されました。そして、さらにもう一つの問い、「わたしの隣人とは誰ですか?」に対して、主は一つのたとえを語り始めます。


エルサレムからエリコへ向かう危険な旅路。そこに横たわる傷ついた者は、名も立場も記されない「ある人」です。彼のもとを通りかかった祭司とレビ人は、彼を見て道の向こう側を通り過ぎました。宗教的務めを担う者でした。ただ彼らは、目の前の苦しむ者に目を向けず、すり抜けていったのです。彼らは律法の純潔性を守ることと、隣人への憐れみとの狭間で、自分を守る方を選びました。イエスは、そうした律法の自己保身的な運用に警鐘を鳴らしておられるのです。


 ところが、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人が近づき、傷ついた人を憐れに思い、自ら手当を施し、宿屋に連れて行きます。彼は銀貨二枚を宿屋の主人に渡し、「必要なら、帰りに支払う」と約束します。ここで注目したいのは、彼がすべてを一人で抱え込もうとしなかったという点です。彼は、その場で自分にできることを全力で行いました。しかし同時に、自分には手が届かない部分を、宿屋の主人、他者に託しました。そこにあるのは「手放す愛」です。無責任な放棄ではなく、人間の限界を知ったうえで、それでも愛し続けるための、勇気ある委ねです。


 もう一つの存在──ロバ。傷ついた者を背に乗せ、運んだこの動物も、無言のまま、苦しみを担い、重荷を背負いました。 私たちもまた、ロバのように「隣人としての役割」を与えられることがあります。常にサマリア人のように主役になるとは限りません。しかし、「委ねられた思いを受け取り、つなぐ者」「無言で支える者」として生きることも、神の働きに与ることなのです。完全な愛を持つことは、私たちにはできないかもしれません。けれども、今、目の前の誰かに向き合うこと、憐れみを持つこと、そして必要に応じて他者に託すこと──そのすべてが「隣人になる」道のりです。


 主イエスもまた、地上に来られ、人々に寄り添い、傷を負い、救いのためにすべてをささげ、そしてなお、後を弟子たちや私たちに託しておられるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉に応えて、完全ではなくても誠実に、いま出会うひとりに向き合う歩みを、主と共に始めてまいりましょう。

 




2025年7月8日火曜日

7/1.2.5.6 病床洗礼式、六日市、柳井、徳山、防府

 

7/1(火)、病床洗礼式が、周南市の徳山中央病院、「救急・救命室」で行われました。

ご夫君は治療中です。ご夫君、ご伴侶ともども受洗されました。

祈りながら日々を送る方々に、また医師・看護師・病院関係者に、癒しを祈ります。

写真は7/8(火)徳山礼拝所の朝です。


7/6(日)防府礼拝所。午後の礼拝堂は、そこにいるだけで汗が…。
7/5(土)六日市礼拝所の方から頂いた「ノンアルコールビール」です。

切干を頂きながら。体にすっとしみこむ炭酸のおいしさです。


7/5(土)柳井礼拝所。こちらも午後礼拝です。

防府、柳井とも、教会員が冷房を入れてくださっています。

7/2(水)六日市礼拝所。今日は聖餐式が行われました。

写真は簡易聖餐・洗礼用具。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

7/9 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

7/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

7/16 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

7/6(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第4主日 説教 

ルカ福音書101-4.16-20節 「大丈夫、戻れます」

水原一郎

 本日は、聖霊降臨後第4主日です。主イエスが72人の弟子を2人ずつ遣わし、神の国の福音を伝えさせた場面を読みました。繰り返される「神の国は近づいた」という言葉を通して私たちは、主が今もご自身の働き人を必要としておられ、私たちを用いるということを受けとめます。


   主イエスは弟子たちにこう語られました。「収穫は多いが、働き手が少ない」。ちょうど今、日本の各地では稲が力強く伸び、あと二~三か月もすれば実りの時を迎えます。しかしその現場では、「田んぼの後継ぎがいない」「働きに見合わない」といった声が深刻さを増しています。このような現実と重なるように、主イエスもまた、「収穫が多く、働き手がいない」という事態に対して、深い憐れみと切実さをもって語られたのです。ただし、主が言われる「収穫」とは、稲や作物のことではありません。それは「神の国の知らせを待っている人々」のことです。見過ごされている命、迷い悩む人々、そしてその人々に差し出されるべき福音の手。そうした魂に神の優しさを伝える働き人が足りない。それが主の痛みであり、今も変わらぬ現実なのです。


    72人という人数は、創世記10章に記される「ノアの子孫」、すなわち全世界の諸民族の象徴と解釈されてきました。つまり、主の福音はユダヤにとどまらず、すべての人に開かれていることのしるしとして、この派遣がなされているのです。主は私たちを、現代の町や村、学校、職場、家庭に遣わしておられます。神の国の福音は、今もあらゆる場所に向けて広がっていくよう、主ご自身が導いておられるのです。


 しかしその道は、決してやさしいものではありません。主は「わたしはあなたがたを、狼の群れに子羊を送るようにして遣わす」と言われました。これは厳しい現実の警告です。外からの敵意や困難(狼)、内なる弱さや怯え(子羊)を、主はご存じなのです。弟子たちは、自分の力や善意でこの務めを果たすのではありません。主が遣わし、主が共にいてくださるからこそ、その使命を担えるのです。それゆえ、主は「財布も袋も履物も持つな」と言われました。頼るべきものは、神の備えと導きにあるからです。


 そして、弟子たちは旅路を終えて主のもとに帰ってきました。彼らは喜びに満ちて報告します。「主よ、あなたの名を使うと、悪霊さえ服従しました」と。しかし、主はその興奮に冷静に応じられます――「悪霊が従うことを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と。これは、結果主義に陥るなという主の戒めです。伝道に成功したから価値があるのではなく、一人の魂が回復し、その魂が前向きな心持となったことに価値がある。それが喜びの根拠であると、主は言われたのです。


    この主日、主はあらためて私たちに言われます。「行きなさい。わたしがあなたを遣わす」と。皆さんが誰かに向ける、たとえ小さな一言でも、祈りでも、助けの手でも、それは主の働きの一部です。それが「神の国は近づいた」という言葉に結び付きます。たとえ小さな働きでも、それを通して神の国は進むのです。主の平和が、あなたの歩みと共にありますように。