2025年9月30日火曜日

9/24六日市の虹、9/27柳井、9/28防府、9/30徳山のメダカ

9/24(水)広瀬で降り出した雨は、六日市に着く頃には上がりました。

虹が出たので、路肩に留めて撮影しました。

9/27(土)柳井礼拝所。まだ午後礼拝でのタオルは欠かせません。
9/28(日)防府礼拝所。ケイトウの花。
9/30(火)徳山礼拝所のメダカ鉢に、仲間が加えられました。

鉢の半分には、徳山礼拝所の塔の十字架を映しました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。


10/1 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/8 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第16主日 説教 

ルカ福音書1619-31節 「今ここで、隣人を見る」

水原一郎

 本日は、「金持ちとラザロ」のたとえです。これは、15章全体のたとえ話や、直前の「不正な管理人」のたとえと深く結びついています。 「富」に代表される神さまからの賜物を、神と隣人のためにどう用いるか、それが問われています。「金に執着する」ファリサイ派が、15章のたとえ話や「不正な管理人」のたとえを「あざ笑った」ことから、主イエスは彼らの心の硬さを指摘するため、ファリサイ派に向け、これを語られました。


 この物語は、二人の人に焦点を当てています。紫の衣に身を包み、毎日を贅沢に過ごす金持ち。対照的に、金持ちの門前に横たわり、皮膚は病み、食物も乏しい貧者ラザロ。「犬だけが」彼の痛みを分かち合うものでした。ラザロという名前は「神が助ける」を意味します。人に見捨てられても、神に望みを置く者を示します。やがて二人は死を迎えます。ラザロはアブラハムの懐に迎えられ、金持ちは陰府で苦しみます。世の中における地位は、神さまのみ前では基準とならないことが示されています。


 大切なことは、金持ちが明確に悪い事をしたとは書かれていない点です。この金持ちはそれでは、なぜ「陰府」に送られたのでしょうか。「見て見ぬふり」をしたことにあります。死後、金持ちはラザロを呼び求めます。「ラザロをよこして、私の舌を冷やさせてください」と。このことから、金持ちは門前のラザロを知っていたことが分かります。しかし「見て見ぬふり」をしていたのです。アブラハムは言います。「生前、あなたは良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。今は彼が慰められ、あなたは苦しむ」。これは賜物を自分のためだけに使い、隣人を無視した生き方に向けられた言葉です。


 金持ちはさらに願います、「せめて兄弟たちに警告を」と。しかしアブラハムは答えます、「律法と預言者がある。聞き従うがよい」と。整理したいと思います。仮に「死者からの警告」があれば、それは直感的には分かりやすいと言えます。背景には、金持ちの兄弟たちは金持ちのように、「賜物」を自分のためだけに用いていたことが考えられます。警告があれば、「賜物」の用いる方向性を「自分ではなく他者に」という思いに至ることでしょう。しかし主イエスは、「今すでに与えられているみ言葉」に従うこと。それが「律法と預言者」に従うこと。その上で、「今目の前にある人々への応答」をと告げているのです。


 このたとえは、他人の行き先を議論するためのものではありません。主イエスはファリサイ派に、「今、与えられたものを誰のために用いているか」と問いかけます。「門前にいるラザロ」に代表される人々に、見て見ぬふりをしていないか。それは私たちにも当てはめることができます。もちろん、私たちの救いは善い行いによって得られるのではありません。ただ、果たして私たちは、与えられた神の憐れみを、隣人に分かち合う生き方を過ごしているでしょうか。その問いを大切に受け止めたいのです。


  金持ちはラザロを見ていたが、真に見ることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。見えているのに無関心でいることを覚えたいと思います。賜物は財産だけでなく、時間、言葉、祈りも含まれます。与えられているものを隣人のために用いることを今日、覚えたいと思います。既に行われている私たちの働きを、主がさらに大きく、広げて下さることを信じ、神さまと隣人に忠実に仕えましょう。



 

2025年9月24日水曜日

9/17六日市、9/20柳井、9/21防府

 

 9/21(日)防府礼拝所。午後礼拝ですが、やはり喉元を緩めないと声が出ません。

 それほど蒸し暑い午後です。

 9/20(土)柳井礼拝所。

 この日は確か、雨交じりだったような気が・・・。

 9/17(水)六日市礼拝所。

 秋桜が咲き始めました。涼しいということ、でしょうか。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/1 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

10/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/21日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第15主日 説教 

ルカ福音書161-13節 「神と隣人のための富」

水原一郎

① ルカ福音書15章で、主イエスは一連のたとえ話を語られました。見失った羊を探す羊飼い、銀貨を探す女、そして放蕩息子を迎える父──いずれの物語も、失われた者を見出し、回復しようとする神の愛を鮮やかに示しています。そこでは、人間の制度や常識を超えて働く、神の深い憐れみが語られていました。


② ところが、それを聞いたファリサイ派の人々は、その意味を受け取ろうとしませんでした。今日の話を受けた箇所では、「金に執着するファリサイ派が、イエスの話を聞いてあざ笑った」と14節に記されています。主が語られた神の愛の真実は、彼らの心には届かなかったのです。今日の箇所では、彼らに違和感を覚えさせた言葉が登場します。「不正にまみれた富で友を作れ」(16:9)主が、不正を奨励しているかのようにすら聞こえるのです。


③ このたとえ話に登場するのは、財産を他人に委ねていた金持ちと、その財産を管理していた使用人(管理人)です。主人は、管理人が財産を浪費しているとの噂を聞き、帳簿の提出を命じて、事実上の解任を通告します。追い詰められた管理人は、主人に借りのある人々の負債を勝手に減額し、将来に備えて恩を売ろうとします。ところが、主人はこの行為を責めるどころか、「この不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた」管理人の将来を見据えた機転に感心します。主イエスは、「この世の子らは、自分の仲間には、光の子らよりも賢い」。人々の処世術の鋭さを見ておられるのです。


④ ここで鍵となるのが「不正にまみれた富」という言葉です。原語に照らして考えると、「不正に得た富」と限定するよりも、「不正と結びつきやすい富」と理解する方が適切です。主は、富そのものを汚れているとは語っておられません。むしろ、富とは人の欲望を刺激しやすく、容易に不正へと傾かせる、危うい力を持つという現実を、主は見ておられるのです。この管理人も、自らの立場が危うくなるなかで、富を自己保身の手段として用いただけでした。主は、将来を見据えた知恵と対応力を見られたのです。


⑤ しかし主イエスは、私たちをさらに深い教えへと導いていかれます。主は言われます。「不正にまみれた富で友を作れ。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れられる」。ここで主が語っておられるのは、富を自己目的のために用いるのではなく、他者との関係のために用いるという姿勢です。富が自分のためだけに使われるとき、それは「富に仕える」こととなります。しかし、それが他者に向けて用いられるとき、それは「神に仕える」こととなる。まさにここに、信仰者としての姿勢が問われているのです。この視点から改めてルカ15章を振り返ると、羊を探す羊飼いも、銀貨を探す女も、息子を赦す父も、それぞれ「自らの時間・労力・富」を惜しみなく他者のために差し出しました。


⑥ では、私たちが他者のために差し出す「富」とは、具体的に何を指すのでしょうか。それは金銭に限られません。時間、労力、知恵、そして祈り──それらすべてが、神から私たちに託された賜物です。これらを用いることによって、私たちは他者との真実な交わりを築き、神の御心に仕えることができるのです。主の教えを心に刻み、日々の生活のなかで、それぞれに託された「富」を神と隣人のために用いましょう。



2025年9月16日火曜日

9/10六日市、9/12防府before after、9/13柳井、9/16徳山

 

9/12の朝、新しく購入した生垣バリカンを試すという名目で、

  防府の草刈りに出かけました。 


  裏手の牧師館の生垣。

  裏手の小道。刈り入れの前。

  9/10(水)六日市礼拝所の礼拝前? 

  秋桜はこれからですが、白い花。名前は…?

  9/16(火)徳山礼拝所の朝。
  

  9/13(土)柳井礼拝所の礼拝前。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

防府礼拝所の、礼拝開始時間が長らく間違っていました。訂正いたします。

9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第14主日 説教 

ルカ福音書15章1節-10節 「見つけ出される羊と銀貨」

水原一郎

① ルカ福音書15章は、ある種の驚きと共に始まります。「徴税人や罪びとが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。彼らは、当時の社会から忌み嫌われ、見下されていた人々です。彼らがわざわざ主イエスに近づこうとしています。これは、注目すべき光景です。この直前の14章の最後で、主イエスは「塩が塩気を失えば、何の役にも立たず、捨てられてしまう」と語られたばかりだったからです。それほどまでに厳しい言葉を語るお方のもとに、あえて近寄る人々がいたのです。おそらく彼らは、自分こそが「塩気を失った者」、社会の中で自分はもう見「捨てられている」と感じていたのかもしれません。けれど同時に、主イエスの語る「捨てられるもの」の中に、自らの姿を重ね合わせ、その方がどんな言葉を語られるのかに、望みを抱いていたのでしょう。


② その彼らに向かって、主イエスは三つのたとえを語ります。「見失った羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえです。三つに共通しているのは、たとえ一つでも失われたものがあれば、それを放っておかないという姿勢です。見つけるまで探し、見つけたときには喜ぶのです。けれども、これらのたとえは私たちに違和感も与えます。

·     「たった一匹のために、九十九匹を荒れ野に置いていくのは危険では?」

·     「九枚あるなら、それで十分では?」

·     「あのような放蕩息子を許す父親は、現実にはいないのでは?」

主イエスは“常識的疑問”を私たちに呼び起こしながら、神の愛の重さを語ります。


③ たとえ話は、「悔い改める一人の罪人のために、天では喜びがある」と締めくくられます。ですが、ここで一つ問いが浮かびます。いったい、誰が悔い改めたのでしょうか? 羊は、自分で帰ってきたのではありません。道に迷い、さまよっていただけです。銀貨に至っては、動くことすらできません。ただ落ちたまま、床に転がっていたのです。しかし、羊飼いは羊を見つけて肩に担ぎ、女主人は銀貨を見つけて友人を呼び集め、喜びの宴を開く。それこそが「悔い改め」なのだと、主イエスは語られます。つまり、悔い改めとはまず、神の側から始まる出来事なのです。神が探し、見出し、抱きしめる。その愛に包まれて初めて、人は応答することができる。悔い改めとは、私たちの努力や意志の結果ではなく、神のあわれみが先立つ恵みなのです。


④ 世の中は、失敗した者、役に立たない者を切り捨てます。律法学者やファリサイ派は、そうした考えに生きていました。「罪びとなど相手にするな」「彼らと食事を共にするなど不敬だ」と批判します。けれど主イエスは、彼らを拒みません。むしろ、進んで彼らのもとに歩み寄り、共に食卓を囲み、語られます。神の愛が、見捨てられた者にも変わらず注がれていることを示すためです。この神の姿こそ、福音の中心です。


⑤  ルーテル教会の礼拝では、「罪の告白と赦し」の時間が備えられています。静かな、ほんのひとときです。その中で、私たちは神の前に沈黙します。自分の罪を思い起こす時もあるでしょう。ただ心しずめる時とされる方もあると思います。春の鳥、夏の虫、秋の風、冬の静かさを感じる時でもあります。しかし、その沈黙の中に、すでに神のまなざしは注がれているのです。迷い、道を見失った私たちを、それでも探し、見つけ出し、抱きしめてくださる神が、ここにおられます。この神の愛があるからこそ、私たちはもう一度立ち上がることができます。その信頼に立って、今週も歩んでまいりましょう。



2025年9月9日火曜日

9/3六日市、9/6柳井、9/7徳山、防府

 9/3(水)六日市礼拝所の様子。本日は聖餐式が行われました。

9/6(土)柳井礼拝所。午後の礼拝堂は暑いです
(最近、それしか書いていないような気がします)。
しかし献花を見ると、徐々に秋に移っているような気がします。
9/7(日)徳山礼拝所。
朝の礼拝堂はすがすがしい雰囲気です。

 9/7(日)防府礼拝所。

裏の生垣が伸びてきました。元気なのは草ばかり、と思わされます。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

9/7(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

礼拝の聖書箇所ですが、日課とは異なっています。

日課はルカ14章25-33節ですが、説教はルカ14章34-35節で作成しました。

聖霊降臨後第13主日 説教 

ルカ福音書1434-35節 「存在の価値―地の塩」

水原一郎

① 「塩」について語られているこの箇所。私たちは蒸し暑いこの夏を越えてきました。台所は湿気がこもります。専用の入れ物に入れているとはいえ、時に塩は湿り気を含んで、固まります。塩は周りの影響を受けやすい、時に私たち人のようなものなのです。


② 本日は、ルカによる福音書143435節から、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。この箇所では、主イエスが突然「塩」について語っているように見えます。「いきなり」と思えるこの言葉ですが、実は、他の福音書との関係において、その意味がより深く理解されます。特にマタイによる福音書513節にある「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉と併せて読むことが大切です。マタイでもルカでも、「もし塩が塩気を失ったら」という、もしものことを言われます。つまり、本日の箇所は、「地の塩、世の光」という主の言葉を背景として読まれるべきものです。


③ マタイ福音書の「地の塩」「世の光」の言葉は、主イエスが召し出したばかりの弟子たちに語られた言葉です。弟子としてのキャリアがこれからの弟子たちに対し、イエスはまず、その存在が、かけがえがないと宣言されます。塩も光も、どちらもこの世に不可欠なものです。主は、「あなたがたがいること自体が、この世に必要なのだ」と語っておられるのです。行動よりもまず存在に意味がある。それが主イエスの言葉です。


④  この前提を踏まえて、ルカ福音書14章の言葉を読みましょう。まず、「塩が塩気を失う」とはどういうことでしょうか。塩の本質は塩辛さ、すなわち他のものに影響を与える力です。その本質が失われることは、本来あり得ないことです。が、現実には「湿気」が塩を変質させ、役割を損なわせます。塩は他と関わることで初めて意味を持ちます。「塩気がなくなる」とは、他との関わりを失うことを指しています。


⑤ このことを私たちの日常に当てはめてみましょう。私たちの「関わる力」を失わせる「湿気」のようなもの――それは周囲の言葉、出来事、不信、無力感、傷つけられた心、そういったものかもしれません。何気ない一言や出来事が、私たちの心を内に閉じ込め、他者と関わろうとする力を弱めていきます。主イエスは、塩気を失った塩は「役に立たず、外に投げ捨てられる」と語られました。これは厳しい現実です。


⑥ しかし、そこで終わらないのが主イエスの福音です。次章のルカ15章において、主は「失われたものを探し出し、喜ぶ」三つのたとえ話を語られます。「迷い出た羊」「失われた銀貨」「放蕩息子とその兄」。失われた存在に対する主の深い愛と関心を表しています。この世は、私たちの社会は、「役割を果たせないもの」「関われなくなった者」を捨てる厳しさがあります。しかし、主はそうではありません。主は、関われなくなった者にこそ目を注ぎ、その存在の尊さを喜ばれるのです。


⑦ 主のまなざしの中で、私たちは常に「かけがえのない一人」として見られています。たとえ今、心が湿気に覆われていても、主は回復を願っておられます。主によって癒され、心を整えられた私たちは、再びこの世に出ていき、周囲に良い影響を与える「塩」として生きることが求められています。自分の存在が尊ばれている――その確信を力として、他者との関わりを取り戻しつつ、日々を歩んでいきましょう。
















2025年9月2日火曜日

8/30.31.9/2 とうがらし乾燥中、柳井、防府のゆり

 

 8/31(日)徳山礼拝所の礼拝で捧げられた「とうがらし」の実。

 処理をして、摘んで、乾燥中。果たして食べられるでしょうか?

 8/31(日)防府礼拝所の記念堂。

 野の百合が一輪。

 8/30(土)柳井礼拝所の献花。

 こちらも百合。

 8/31(日)徳山礼拝所。とうがらしが・・・。
 8/27(水)。この日は須金あたりでぽつぽつ降り出したものが、広瀬では豪雨。

 六日市では止んでいました。

 「ゲリラ豪雨」という雰囲気ではなく、夕立。この言葉も最近聞かなくなりました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

9/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

9/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

9/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

8/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第12主日 説教 

ルカ福音書1417-14節 「比べる心から、祈る心へ」

水原一郎

① 本日の聖書は、ルカ福音書141節および714節となります。「安息日」つまり神さまのみ前に心を安んじる日の出来事です。主イエスが、安息日の意味を回復され、痛み、苦しみのただ中にある方々と共におられる、主のまなざしを覚えます。


② まず1節を見ましょう。「安息日のことだった。イエスは・・・あるファリサイ派の議員の家で食事をされた」とあります。この日、イエスは礼拝の後、有力なファリサイ派の議員のもとに招かれました。ところで、安息日をめぐっては、すでに13章で「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」を癒した主に対して会堂長が憤る場面がありました(13:1017)。今日の箇所(14:1)の続きである、読まれなかった26節にも同様の緊張が見られます。体のなかに水分が溜まる「水腫」を、主が癒されたのです。


③ 安息日は「神を礼拝する日」として重んじられていました。会堂長、ファリサイ派は、「礼拝をする」ために「何をしてはならないか」という禁止を定めていたのです。それに対し主イエスは、安息日を「人の命と尊厳が回復される日」と見ておられたのです。先日の「十八年もの間、腰が曲がっていた女性」にしても、読まれなかった26節の「水腫」の人にしても、その痛みは当人が良く知ります。ファリサイ派はその痛みをあくまでも「他人事」としますが、主イエスは「自分事」とします。だから、癒されるのです。禁止事項で固められた当時の安息日を、神のみ前に心を休める時とするのです。


④ 場面は食卓へ移ります。招かれた人々は、我先にと上席を選びました。誰がどの席に座るか名誉と体面がものをいいます。「自分はどこに座れる者か」自分と他者とを比べ、競い、優劣を決める心です。「誰がどの席に座るか」ではなく、「自分がどの席に座りたいか」が先行する空気。背景には、他者と自分とを比べる思いがあります。


⑤ そこで主は語られます。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ここで言われているのは、単なる席次のマナーではありません。神の国では、評価の物差しそのものが入れ替わる、ということです。社会では、人のまなざしの前に私たちは身を置き、座らされます。しかし安息日は、人ではなく、神のまなざしの前に――低く座るのです。そして主は、招かれた客だけでなく、主催者にも語られます。「昼食や夕食の会を催すなら、友だち、兄弟、親類、金持ちの隣人を招くな。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招け。」見返りを求めない交わり。そこに――神の国の食卓が、いま、ここに、ひらかれます。


⑥ きょう、この場にも、見える痛みを負う方がいるでしょう。外からは見えない深い痛みを抱える方もおられるでしょう。主は、どちらも見過ごされません。安息日とは、痛む者に「安らぎ」と「回復」が与えられる日。比べることをやめ、神の前に静まり、低く座る日です。では、新しい一週間を、どう歩み始めましょうか。三つ、具体的に申し上げます。一つ、人の眼差しの中に、励まされて出てゆく。二つ、今この時は「神の眼差しの中に座る」と覚える。三つ、この週、見返りを期待できない相手を、一人、覚えて祈る。


⑦ 主イエスは、安息日のただ中で、痛む者を癒し、高ぶる者を戒め、へりくだる者を高くされました。私たちも、そのまなざしの中に立ち、新しい週へと歩み出しましょう。